同情しないから金はやらん

「deserving poor」に関する論議ブロゴスフィアの一部を賑わせていたが(タイラー・コーエンノアピニオン氏Frances Woolley)、そもそものきっかけは、Econlogのブライアン・カプランとModeled Behaviorのカール・スミスがそのテーマについて討論することが予告されたことにある。実際に2/1に討論会が実施されたようで、カプランがそこでの自分の主張をEconlogでまとめている
以下はその抜粋。

The deserving poor are those who can't take - and couldn't have taken - reasonable steps to avoid poverty. The undeserving poor are those who can take - or could have taken - reasonable steps to avoid poverty. Reasonable steps like: Work full-time, even if the best job you can get isn't fun; spend your money on food and shelter before you get cigarettes or cable t.v.; use contraception if you can't afford a child. A simple test of "reasonableness": If you wouldn't accept an excuse from a friend, you shouldn't accept it from anyone.
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Let's start with healthy adults in the First World. Even the least-skilled full-time jobs pay more than enough for adults to comfortably support themselves. In the U.S., the average income for janitors is about $25,000/year; the average for maids is about $21,000. A household with one janitor and one maid averages $46,000, enough to put them at the 96th percentile of the world income distribution - and well above the U.S. poverty line.
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Some people think it's pointless to talk about desert. I disagree. If you're a libertarian who opposes any government spending on the poor no matter what, you should still consider desert when you give to charity. Starving Haitian children really do deserve your help more than almost any American. If you have a more expansive view of the proper role of government, you should still see a big difference between forcing taxpayers to help starving kids, and forcing taxpayers to help irresponsible adults. If you've ever told a frustrating friend or relative, "It's your mess, you clean it up," you should see the injustice in forcing taxpayers to support undeserving people they don't even know.
(拙訳)
情状酌量に値する貧者とは、貧困を避けるための適切な手段を取ることができない、ないし、できなかった人々である。情状酌量に値しない貧者とは、貧困を避けるための適切な手段を取ることができる、ないし、できた人々である。ここで言う適切な手段とは、たとえ就くことのできる最善の職が面白いものではなくてもフルタイムで働くことや、煙草やケーブルテレビを買う前に食料や住居に支出することや、子供を養う余裕が無ければ避妊することを指す。適切かどうかの簡単な判定基準は、友人がした場合にあなたが容認できない言い訳であれば、誰がその言い訳をしても容認すべきではない、ということである。
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まず、第一世界の健康な成人について考えてみよう。熟練度が最も低いフルタイムの仕事でさえ、大人が余裕を持って自身を養うのに十分以上の賃金を提供している。米国では、清掃員の平均年収はおよそ2万5千ドルであり、メイドの平均年収はおよそ2万千ドルである。清掃員とメイドの家庭の平均年収は4万6千ドルということになるが、それは世界の収入分布の96%点に位置するのに十分な額であり、米国の貧困ラインのはるか上に位置する。
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酌量に値するか否かを議論するのは無意味、という人もいるが、その見方には賛成できない。貧困層に対するいかなる財政支出にもすべて反対するリバタリアンならば、慈善事業に寄付した先がそれに値するかどうかをやはり気にするだろう。ハイチの飢えた子供は、ほとんどすべての米国人よりも、あなたの援助に真に値する。そうしたリバタリアンよりは政府の適切な役割を幅広く認める人でも、飢えた子供への援助を納税者に強制するのか、それとも無責任な大人への援助を強制するのか、の違いが大きいことは認めるだろう。苦境に追い込まれた友人もしくは親戚に「身から出た錆なのだから、自分で始末をつけなさい」と言ったことのある人ならば、知りもしない酌量に値しない人への援助を納税者に強制することの不公平さは分かるはずだ。

ただ、Econlogの読者といえどもこうした考え方に抵抗のある人は少なくないようで、コメント欄を見ると、批判的なコメントが意外に多い。そうした批判を適当に拾ってみると、以下のような感じである。

  • 酌量に値しない大人の酌量に値する子供はどうするのか?
  • 酌量に値する、しないを見分けるのはそれほど簡単ではない。
  • 清掃員やメイドには自己負担の経費が多く、実際の手取りはもっと低い。
  • アビジット・バネルジー(Abhijit Banerjee)とエスター・デュフロ(Esther Duflo)の「Poor Economics」によれば、第三世界の1日1ドル以下で生活している人も、栄養価の高い食料や投資にではなく、お祭りや煙草といったことに支出の多くを費やしている。その点では米国の無責任な大人と同じ。
  • カプランは貧困層の煙草やビールへの支出を非難するが、彼らの育った環境において形成される価値観を過小評価している。