デフレ脱却と相転移のアナロジー

貨幣数量方程式(MV=PY)に関する日米の各論者の議論を読んでいて、ふと、この式を変形すれば貨幣の超過需要の関数になるのではないか、と考えた。具体的には、
  G = PY - MV                                   (1)
としてGを定義した場合、右辺第一項は名目GDPであり、貨幣需要が発生する要因である半面、右辺第二項は貨幣供給であると言える。従って、このGは貨幣の超過需要を表わすものと考えられる。
この時、事後的には需給均衡により第一項と第二項は必ず一致するので、Gは必ずゼロとなるが、事前的には必ずしもそうではない。あくまでもP(物価)、Y(実質GDP)、M(貨幣供給)、V(貨幣の流通速度)のいずれか(もしくは複数)のパラメータの調整によって、最終的にGがゼロになる、と考えられる。


もう一つ関連して思いついた話が、岩本康志氏が「レジーム転換」と表現する変移が、物理学で言う相転移とアナロジカルに捉えられないか、というものである。そこで、キッテルを参考に、上記の貨幣超過需要関数を系の自由エネルギーに見立てて、デフレ脱却の「レジーム転換」の際にMとYが連続的な場合のPとVの変化の関係式を求めてみた(相転移で言うクラウジウス=クラペイロンの式)。


ジーム転換前(=流動性の罠)におけるGをGL、レジーム転換後(=流動性の罠脱却後)におけるGをGHと表わし、レジーム転換時には両レジームが共存すると考え、その時のY、MをそれぞれY0、M0と置くと
  GH(Y0, M0) = GL(Y0, M0)                            (2)

となる。また、YとMが微小変化した場合もその共存が成立すると考えると、
  GH(Y0+dY, M0+dM) = GL(Y0+dY, M0+dM)                   (3)
となる。上式の級数展開を考えると
  G_H(Y_0,M_0)+(\frac{\partial G_H}{\partial Y})_M dY+(\frac{\partial G_H}{\partial M})_Y dM+...\\=G_L(Y_0,M_0)+(\frac{\partial G_L}{\partial Y})_M dY+(\frac{\partial G_L}{\partial M})_Y dM+...         (4)
であり、dYとdMを0に近づけた極限では
  (\frac{\partial G_H}{\partial Y})_M dY+(\frac{\partial G_H}{\partial M})_Y dM=(\frac{\partial G_L}{\partial Y})_M dY+(\frac{\partial G_L}{\partial M})_Y dM   (5)
が得られる。これを整理すると
  \frac{dY}{dM}=\frac{(\frac{\partial G_L}{\partial M})_Y - (\frac{\partial G_H}{\partial M})_Y}{(\frac{\partial G_H}{\partial Y})_M - (\frac{\partial G_L}{\partial Y})_M}                          (6)
となる。よって
  \frac{dY}{dM}=\frac{V_H-V_L}{P_H-P_L}                                (7)
という、貨幣数量版クラウジウス=クラペイロンの式が求められる。


この関係式から、レジーム転換前後のインフレがどの程度になるか見てみよう。
まず、(7)式の右辺の分子のVの変化についてであるが、keiseisaimin氏の推計によれば、現在のレジームに陥る前の1995年のV(=VH)は10程度、最近のV(=VL)は5程度なので*1、その値はおよそ5程度となる。
次いで、(7)式の左辺を求めるため、単純に2000年基準の実質GDPを被説明変数、ベースマネーを説明変数として回帰してみると、推計期間が1980年から2010年までの四半期ベースでは、2.37という値が得られる。これから(7)式の右辺の分母(=レジーム転換前後のデフレータの変化幅PH-PL)を求めると、2.1となる。即ち、この関係式からは、現在0.88程度のデフレータが3倍以上にもなるような猛インフレが予想されることになる。
ただし、回帰の推計期間を1980年から前回のレジーム転換直前の1995年までとすると、(7)式の左辺は7.67まで上昇する。これを満たすPH-PLは0.65なので、インフレの上昇率は74%程度となる。やはり高いインフレ率には違いないが、ベースマネーに対する実質GDPの感応度が高ければ、数字がかなり抑えられることが分かる。
また、このレジーム転換に掛かる時間も考慮すると、その数字はさらに下がる。keiseisaimin氏のグラフを見ると、Vが10近辺から5近辺まで低下するのに7年掛かっている。今回のデフレ脱却にも同じくらい時間が掛かると考えると、インフレ率の年率は8%程度とかなり抑えられる。だが、これもマイルドインフレと呼べる数字ではないことは明らかである。


こうした大幅なインフレ予想に対し、それを甘んじて受け入れるのではなく、貨幣供給を削減せよ、というのが岩本氏の提言である。ただ、そこで相転移(正確には一次相転移)の比喩が効いてくる。一次相転移においては、(7)式の右辺の分子にMを乗じたものに相当する指標は潜熱と呼ばれ、それだけのエネルギーを系に投入しないと相転移が起こることは無い。これを当てはめると、レジーム転換が完了しないうちに貨幣供給を削減するのは、相転移が完了しないうちに温度を下げることに等しく、結局レジーム転換を失敗させてしまうことになる*2。これがリフレ派が懸念する点であり、かつ、過去の日銀の早過ぎる金融引き締めによるデフレ脱却失敗として批判する点である。


一方、物理における系と違って人間の系は賢いので、先行きを予想する、ということを行う。それを利用すれば、レジーム転換を貨幣供給という物量作戦に頼るのではなく、金利引き上げを遅らせることによって同等の効果が得られるのではないか、という提言も岩本氏は行っている。これは理論としては正しいが、上述のような日銀の“前歴”を考えるとどこまで信用されるか疑問符が付く、という、予想に頼る場合には必ず付き纏う問題が残る。大量の貨幣供給を経済システムに残留させることは、その予想を強化する、という効果も期待できる(経済学的に考えれば、むしろそれがメインの効果になる、と言えるかもしれない)。


ちなみに、このような相転移とデフレ・インフレの比喩については、こちらのブログ過冷却が取り上げられている。過冷却とは、本来ならば気体→液体もしくは液体→固体の相転移が起きるはずの温度まで下がっているにも関わらず、その相転移が起きていない状態を指す。そちらのブログでは、量的緩和で本来はハイパーインフレのレジームに移行してもおかしくないのに対し、現在もデフレの状態に留まっていることを過冷却に喩えている。
だが、(7)式からは、逆の考察が導かれる。それは、気体→液体の相転移で体積が一気に縮小するように、デフレ状態へのレジーム転換によって価格はもっと一気に下がってもおかしくならなかったのに、実際にはそうはならなかった、というものである。クルーグマンはかつてその原因を価格の下方硬直性に求めたが、相転移の比喩を使えば、現在は過冷却という準安定状態にある、と言えそうである。


もちろん、以上はあくまで比喩的な話であり、統計力学のようにミクロ的基礎付けに基づいているわけではない。とは言え、将来のハイパーインフレ懸念もケチャップ理論や岩石理論のような比喩で語られることが多い。本日のエントリは、それとは違った角度の物理学の比喩も考えられる、ということで、一つのネタとして読んで頂ければ幸いである。

*1:ベースマネーの流通速度。なお、日銀の貨幣指標の単位は億円、SNAのGDPの単位は10億円なので、Vはkeiseisaimin氏のグラフ値を10倍したものとなる。

*2:実際の物理の系では潜熱は相転移のエネルギーとして使用されて物質中に体化される。貨幣の超過需要を削減した後に日銀が貨幣供給を吸収することは、そうした体化に相当すると考えられる。