ドナルド・ダックたちの宴

経済政策を巡る論議は、自然科学と違い、実験で決着するわけにはいかないので、ある経済政策を推進する主張と、それに対する懐疑論との応酬が延々と続く、という光景をしばしば目にする。もちろん最近は実験経済学といった手法も出てきてはいるが、それで決着が付く分野は限られており、マクロ経済政策については未だし、というのが実情だろう。この問題に関して、例えば以前のエントリで引用したハイエクは、そもそも経済学と他の科学との比較を考えること自体が無意味、とまで論じている。


ただ、自然科学の応用分野である工学、なかんずく巨大建造物の建築という事業においては、経済学よりは精密な科学、および、風洞実験などの経済学におけるよりは信頼性の高い事前の検証が利用可能であるにせよ、やはり本番をやってみなくてはうまくいくかどうか分からない、という側面があるだろう。その意味では、マクロ経済政策と共通した問題を抱えているようにも思われる。そのことに関連して、ふと、以下の本の一節を思い出したので、今回のエントリではそれを引用してみる。

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)

彼は批判には慣れていたし、どう対処すればよいかも知っていた。それどころか、同僚との工学上の議論の応酬は心ゆくまで楽しんだし、自分のほうが負けるような稀有なことがあったとしても、不機嫌になることはなかった。だが、ドナルド・ダックが相手となれば、事はそう簡単ではなかった。
これはもちろん本名ではなかったが、ドナルド・ビッカースタッフ博士の一種独特な憤然たる懐疑主義は、しばしば二〇世紀の伝説的なキャラクターを思いおこさせたのである。彼の(穏当ではあるが、ずば抜けているわけではない)学位は、純粋数学のものだった。彼の武器は、見栄えのする容貌、甘美な声、それと自分にはいかなる科学的題材にも判断をくだす能力があるという揺るぎない自信だった。モーガンは、かつて王立科学研究所で聴講した博士の旧型式の公開講座が、楽しかったことを覚えていた。その後一週間近くというもの、彼は超限数の奇妙な性質がほとんどのみこめた気がしていたものだ……。
残念なことに、ビッカースタッフは、自分の限界を知らなかった。彼には自分の情報サービスに加入する熱烈なファンの仲間がいたが(もっと以前の時代なら、彼は科学解説者と呼ばれたことだろう)、批判者の範囲はそれ以上に広かった。いくらか同情的な者は、彼が能力以上の知識を得てしまったのだと考えていた。ほかの者は、彼に、“自家営業の白痴”とレッテルを貼った。
・・・
ブルーネルは、もちろん“ドナルド・ダック”たちに取りかこまれていた。中でもとくにうるさかったのはディオニシウス・ラードナー博士なる人物であって、彼は汽船が絶対に大西洋を横断できないことを、疑問の余地なく証明したのだった。工学者は、事実についての誤解や単純な計算違いに基づく非難ならば、反論を加えることができる。だが、ドナルド・ダックの持ちだす論点はもっと巧妙なものであって、返答は容易でないのだ。モーガンは、彼のヒーローが三世紀前に、まったく類似の問題にぶつからなければならなかったことを、急に思いだしたのだった。
彼は、本物の書物を集めたささやかながら貴重なコレクションに手をのばし、おそらく他のどの本よりも繰り返して読んだと思われるもの、ロルトの有名な伝記『イザムバード・キングダム・ブルーネル』をひっぱりだした。手垢に汚れたページを繰ってゆくと、記憶を呼びさまされた場所はすぐ見つかった。
ブルーネルは、長さ三キロ近い鉄道トンネルを計画していた――“途方もない、異常な、まったく危険な、実際的でない”考えだった。人類がこのような地獄の底を突っぱしる試練に耐えられるとは想像もできない、と批評家たちはいった。「事故があれば自分を押しつぶすに足るほどの土の下にいることを意識しつつ、日光から遮断されることは、なんぴとといえども望まないであろう……二つの列車がすれちがう騒音は、神経をめちゃめちゃにするだろう……二度と乗りたいと思う乗客はあるまい……」
すべては、聞き慣れた議論だった。ラードナーやビッカースタッフたちのモットーは、「何事によらず最初のものはいけない」であるらしかった。
それでも、ときには、彼らのいうとおりになることもある――仮にそれが確率の法則によるものであるにせよ。


こうした巨大建造物に関しては、兎にも角にも反対を押し切って建設してうまく機能してしまえば、それで議論に決着が付く*1。しかしながら、経済政策に関しては、実際に実施した後になっても、その効果が本当にあったかどうかで議論がまた延々と続くことになる(eg. ニューディール政策批判テイラーの財政政策批判)。そこにやはり経済学独特の難しさがあると言えよう。

*1:タコマ橋(やはり「楽園の泉」で言及されている)のように失敗しても決着が付くが。
(…ただし、阪神大震災のような想像を超えた状況[クラークの言う「確率の法則によるもの」]が発生して初めて「失敗」が判明することもある――同震災の1年前にはロサンゼルスで大地震があり、高速道路が崩壊したが、そのとき日本の専門家は「耐震対策が進んだ日本ではあのような被害は起きない」と断言したという。)