何が情報の非対称性産業を特徴付けるのか?

2/16に紹介したスティーブ・ワルドマンのブログエントリで、

コーエンの例示した政府、医療、教育に加えて、金融サービスも評価の難しい分野と言えるだろう。それらの分野では資金の流れが迂回的であり、かつ、不透明であることが多い。そのために短期的な予算制約が曖昧になり、費用やリスクが時間的に分散したり、購入の決断をした人以外に移転したりする。これは、それらの分野がエージェンシー問題や情報の問題に陥りやすいことを示している。個人的には、これらをまとめて「情報の非対称性産業」と呼びたい。多くの人々がこれらの分野をこれからの米国の成長産業と考えているが、それは考えるだに空恐ろしいことだ。

という趣旨のことが書かれていたが、ワルドマンが直近のエントリでその点について補足している

その補足は、アーノルド・クリングの批評を受けて書かれている。クリングは、上記のワルドマンの考察について以下の2点を指摘した。

  • 情報の非対称性はそれら4産業に限った話では無い。住宅や自動車や電気機器の売買においても情報の非対称性は存在する。
  • それら4産業の特徴は、売り手の知識が実は人々の期待値以下という点にあるのではないか。教育者は何が実際に付加価値をもたらしているか知らない。テストの成績は学生の(大抵の場合は遺伝的な)資質によって決まり、残差はランダムで再現不可能なものである。


この2点の指摘に対応する形で、ワルドマンは以下の2点を挙げている。1点目はクリングの最初の指摘に対する反論であり、2点目はクリングの2番目の指摘について考察を深めたものである。

  • これらの4産業では、消費者が商品を購入した後になっても、その質を判定することが困難である。一方、住宅や自動車や電気機器については、質の悪い商品を掴まされたら後でそれと分かることが多いので、他者の経験や売り手の評判を調べることによって情報の問題を緩和できる。
  • 「売り手の知識が実は人々の期待値以下」という点に関しては、それらの4産業は、裏付けの無い自信でカバーしている。そして、それは必ずしも詐欺行為だとは言えない。手術を受ける患者は、「自分は多分有能だ」と考えている医者よりも、「自分は神だ」と信じている医者に執刀されることを好むだろう。客観的な指標が無い以上、売り手の自信という曖昧なものも消費者は手掛かりにせざるを得ないのだ。


後者の点は、ここで紹介したアローの有名な論文「Uncertainty and the welfare economics of medical care」の「信頼と委任の概念(The concepts of trust and delegation)」の項を想起させる。


この点について、ワルドマンはさらに興味深いことを書いている。

That doesn’t mean politicians, doctors, teachers, and bankers should get a free pass for all the ways they mislead us. There are corrupt practices in these professions that we can detect, that we should condemn and sometimes criminalize. But as long as these are fields in which providers themselves can’t reliably evaluate the quality of the services provided, the rest of us will have a very hard time distinguishing between corrupt practices and natural variability of outcomes. Moreover, these industries are likely to foster particularly insidious forms of corruption. Human beings want both to do well and to do good. Uncertainty leaves insiders ample room to persuade themselves, genuinely, that practices they find remunerative are in fact “best practices”. Under most circumstances, corrupt actors try not to be discovered, and when they are discovered, they are ashamed. When corrupt practices are discovered among bankers, lobbyists, health insurers, pharmaceutical companies, and teachers, our op-ed pages overflow with explanations of how activities that may smell questionable to the uninformed nose are in fact in the public interest. The columnists may be quite sincere. In fact, if you had the sort of detailed understanding available only to industry insiders, you would surely agree with them.
(拙訳)
このことは、政治家、医者、教師、そして銀行家が、いかなる手段を用いて我々をミスリードしても構わない、ということを意味するわけではない。これらの職業においては、我々にも検知可能な悪しき慣行が存在しており、そうした慣行を我々は非難し、場合によっては罪に問わねばならない。しかし、提供者自身が自らのサービスの質に対して信頼性のある評価ができないのがこれらの分野の特徴である以上、部外者の我々が、悪しき慣行と、自然に生じる結果のばらつきとを区別するのは非常に難しい。しかも、これらの産業では、堕落がとりわけ巧妙な形をとる傾向がある。人間というものは、うまくやると同時に、善を行いたいと思うものだ。不確実性が存在すると、割の合う習慣がまさに「最善の慣行」なのだ、と自分を純粋に信じ込ませる余地が内部の者にとって大いに存することになる。普通の場合は、堕落した人間は見つからないように努め、見つかった場合は恥じ入ることになる。しかし、銀行家、ロビイスト医療保険会社、製薬会社、そして教師における悪しき慣行が見つかると、素人には一見問題のように思われる行動が実は公益に適うのだ、という論説が紙面に溢れかえることになる。それらの論説を書いている人たちは極めて真摯である。実際、その産業の内部者並みに事情に精通するならば、あなた方も彼らに同意するに違いない。

この考察は、以前ここで書いた小生の考察と通ずるものがあるように思われる。


なお、コメント欄では、“評価の難しい産業では、最善を尽くして手に入れた情報だから価値がある、と内部者が思い込んでしまう傾向があるが、実際にはそうした情報のほとんどは、それに基づいて行動を起こすだけの価値が無い”という趣旨の長文のコメントが投稿され、ワルドマンは「excellent comment」と激賞している。そのコメンターは、自らの従軍経験からそうした考察を導き出したとの由。