スティーブ・ワルドマンの「The Great Stagnation」評

タイラー・コーエンの電子書籍「The Great Stagnation」が米ブログ界で話題を呼んでいるが、Interfluidityのスティーブ・ワルドマンもそれについて論考を書き、コーエン本人に称賛されている。いつもにも増して晦渋な文章で読むのも一苦労なのだが、以下に簡単にその内容をまとめてみる。

  • コーエンによれば、1973年以降に我々は大停滞(great stagnation)に陥り、成長率が鈍化した。そのため、人々は期待したほど豊かにはならなかった。その停滞は、技術の変化速度の低下と、それより以前に存在した優位性や技術革新によってもたらされた「容易に収穫可能な果実(low hanging fruit)」を採り尽くしてしまったことによる、とコーエンは述べている*1
  • コーエンの提起した問題で最も洞察に富んでいるのは、技術に関することではなく、「収入」ないし「生産」に関することだろう。収入をもたらす活動が信頼できる価値判断と結びついていないことは多々ある。よく言われるのが、政府支出が価値の高い経済活動に向けられていない、ということだが、民間部門もそうした問題と無縁では無い。たとえば医療や教育という分野では、民間の活動といえども、相対的価値――それに対する支出を他の用途に振り向けた時と比べた――の評価は困難である。我々は皆それらの分野に払い過ぎているがために、単純に収入で計測した場合にはその移転所得の分だけ経済的価値を過大評価しているのだとしても、ではその移転所得がどれだけか、を見積もる術は無い。
  • コーエンの例示した政府、医療、教育に加えて、金融サービスも評価の難しい分野と言えるだろう。それらの分野では資金の流れが迂回的であり、かつ、不透明であることが多い。そのために短期的な予算制約が曖昧になり、費用やリスクが時間的に分散したり、購入の決断をした人以外に移転したりする。これは、それらの分野がエージェンシー問題や情報の問題に陥りやすいことを示している。個人的には、これらをまとめて「情報の非対称性産業」と呼びたい。多くの人々がこれらの分野をこれからの米国の成長産業と考えているが、それは考えるだに空恐ろしいことだ。
  • かつてダニ・ロドリックは、腐敗していることが多い新興国にさえ発展をもたらすという点で貿易財は特別である、と喝破した。コーエンはその点について鋭い説明を提供している。即ち、国際市場で競争する貿易財というのは情報の非対称性が低い財であることが多い、というものだ。それらの財では収入という上辺の価値と実際の価値が密接に結びついており、誤魔化しが効きにくい、というわけだ。そうしてみると、先進国が情報の非対称性が高い分野に特化するというのは、発展に反する戦略を採ることになってしまうのではないだろうか。
  • コーエンはまた、上記とは反対の話として、多くの新技術が収入をもたらさない価値を生み出すことを指摘している。例えば、過去の延長から考えると、音楽やニュースに我々は今よりももっと金を支払ってもおかしくないはずだ(それらに対する支払いが減少したのは、我々の嗜好が変わったためではなく、技術ならびに産業が変わったためだろう)。こうした傾向は、一面では喜ばしいことかもしれないが(ただより安いものはない)、経済に動脈硬化を引き起こし、その症状が貨幣経済を通じて広がっていってしまうかもしれない。
  • 金銭的収入と価値が歩調を合わせている部門からそうでない部門に経済がシフトするに連れ、従来の「市場」という装置は崩壊し、行動をより価値の高い方向へ向かわせる仕組みが働かなくなってしまうのではないか。そうしたことが起これば、厚生面にも悪影響を及ぼすだろう。
  • コーエンの議論を敷衍すると、名目上の貯蓄のかなりの割合は実体を伴わない、ということになる。というのは、所得のかなりの部分は実体的な経済活動を伴っておらず、従ってその所得からの貯蓄には、対応する実体的な投資が存在しない、ということになるからである。その場合、その貯蓄を取り崩そうとすると、インフレを招くか、もしくは他の消費を犠牲にすることになる。このことは社会的政治的問題を引き起こす。
  • 技術進歩の速度の低下が我々の問題の多くを引き起こしたのだ、というコーエンの主張には個人的には説得されていない。ケビン・ドラムを初めとする多くの人が言うように、インターネットや情報技術の発展によってもたらされた「容易に収穫可能な果実」もあるのではないか、と思うからだ。その果実により様々な共同作業が容易になったが、アセンブリラインからLLCに至るまで、共同作業の技術というのは過去の黄金時代の発展に大きく寄与してきた。
  • 確かにインターネットを除けば、人々の生活を大きく変える技術は近年あまり無かったかもしれない。コーエンはそうしたブレークスルーの欠如を嘆いているが、一方でそうしたブレークスルーは人々の厚生を根本的に予測不能な形で変えてしまう。そうしてみると、そうした変化無しで生産性が向上したことはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。
  • 発展途上国の中には、政治的文化的な要因によって、我々からすると目の前にぶら下がっているように見える果実を採らない国もある。しかし、実は我々自身も、自分たちが気付かないだけで、同じ状況にあるのかもしれない。
  • ネオリベの経済学者は、労働市場が常に自律的に自動調整する、と言う――労働者が農業から離れた際には、より付加価値の高い工場が出現して彼らを雇ったし、そうした工場がダウンサイジングやオフショアリングを実施すれば、さらにより付加価値の高いサービス産業が出現するだろう、というように*2。しかし、実際には、そうした移行に際しては、職を失った労働者の購買力を維持するための社会制度上の革新が必要だったし、そうした革新抜きでは大恐慌のような状況が常態化していただろう。その社会制度上の革新とは、例えば、政府による所得移転、財政支出労働組合、金融政策による介入、金融バブル、金融詐欺、といったものである*3
  • コーエンは技術革新によって政府が肥大化した、と論じている。しかし、技術革新によって大きくなったのは民間部門も同様であり、コーエンの議論はなぜ政府が相対的に大きくなったかの説明になっていない。政府が民間を上回って巨大化したのは、富の均霑と民主政府の維持のために、技術革新に伴う経済力の集中に対抗する国家の行動が必要だったため、と考えられる。レーガン以降の「小さな政府」はそうした過程を地下活動に追いやり、隠れた所得移転は「民間」の金融部門により担われた。しかしそのやり方は、非効率、不透明で、従来の法や慣行からすれば詐欺的なケースも多々あった。その金融機関の弱いものが2008年に破綻し、皆が苦境に陥ることになった*4

*1:この見解自体は目新しいものとは言えないだろう――例えばサムナーも以前似たようなことを述べている

*2:cf. このエントリ

*3:この項と次項の議論は、タイラー・コーエンの悪の双子の兄弟であるタイロン(Tyrone)がワルドマンの夢枕に立って語ったこと、という体裁を取っている。ちなみにタイロンは別にワルドマンの発明ではなく、コーエン自身が自ブログに登場させたのをワルドマンが借用した形になっている。はてな界隈で喩えるならば(善悪は別として)レギュラー先生みたいな存在と言えるだろう。

*4:これはラジャンの議論をワルドマンなりに(タイロンの口を借りて)まとめたものと思われる。