コチャラコタは勉強不足か?

一昨日のエントリの脚注で簡単に触れたが、デロングがコチャラコタを批判したエントリを書いているので、以下に簡単に紹介する。
デロングが槍玉に挙げたのは、本ブログでも5/22に紹介したコチャラコタ論考の冒頭の一節。

I believe that during the last financial crisis, macroeconomists (and I include myself among them) failed the country, and indeed the world. In September 2008, central bankers were in desperate need of a playbook that offered a systematic plan of attack to deal with fast-evolving circumstances. Macroeconomics should have been able to provide that playbook. It could not. Of course, from a longer view, macroeconomists let policymakers down much earlier, because they did not provide policymakers with rules to avoid the circumstances that led to the global financial meltdown.

Modern Macroeconomic Models as Tools for Economic Policy | Federal Reserve Bank of Minneapolis

(拙訳)
今回の金融危機において、マクロ経済学者(私はその中に自分も含めているのだが)は、国ないし世界の期待に応えられなかったと思う。2008年9月、中央銀行家たちは、急速に進展する事態に対処するためのシステマティックな攻撃プランを提示する戦術書*1を切望していた。マクロ経済学はそうした戦術書を提供できるはずだったが、できなかった。もちろん、もっと長期の視点からすると、マクロ経済学者はそれよりずっと前に政策当局者を失望させていた。そもそも、世界的金融危機にまで至る状況を防ぐようなルールを政策当局者に提供できていなかったのだから。


これについてデロングは以下のように書いている。

My reaction to this is the old one: "Huh?!"
For "macroeconomics" did and does have a playbook that offered a systematic plan of attack to deal with fast-evolving circumstances.
The playbook was first drafted back in 1825, during the bursting of Britain's canal bubble.
(拙訳)
これに対する私の反応は、お馴染みの「ハァ?!」というものだった。
というのは、「マクロ経済学」は、急速に進展する事態に対処するためのシステマティックな攻撃プランを提示する戦術書を以前から有していたからである。
その戦術書の初稿は1825年、英国の運河バブルの破裂の際に書かれた。


そしてデロングは、彼の言う戦術書について概説しているが、実はそこは基本的に前日の5/28エントリの内容の繰り返しである。要点をまとめると以下の通り。

  • ワルラス則によって全面的な供給過剰は起こりえないとしたジャン・バティスト・セーの主張は、人々の貨幣退蔵によってそれが起こり得ることを指摘したジョン・スチュワート・ミルによって反駁された*2
  • そうした状況に対処するには、政府が乗り出すしかない。
  • 1825年の恐慌の際に、イングランド銀行は大規模な信用供与を実施した。その様子を、ウォルター・バジョットは当時の担当者の証言を通じて活き活きと描写した。2007年以降に世界の中央銀行財務省が取った行動も、まさにその戦術書の通りだった。
  • リカルド・カバレロが言うように、財政赤字が政治的に許容される限界に達し、政府が国債という形での安全資産の供給ができなくなったとしても*3、民間の生成する安全資産のシステミックリスクを引き受けるという形で、世界中で不足している安全資産の供給を確保することができる。


デロングはこのエントリを以下のように締めくくっている。

The playbook is old and well-established, and has been put to effective use.

That Narayana Kocherlakota and company did not know it existed--that he and his circle had never studied Kindleberger and Minsky, let alone Fisher and agehot and Mill, and knew Keynes and Hicks only as straw men to be ritually denounced as sources of error rather than smart people to be listened to--will doubtless appear to future generations as an interesting episode in the history of political economy. But nobody should confuse the failure of Kocherlakota's branch of macroeconomics with the failure of macroeconomics in general.
(拙訳)
この戦術書は、歴史ある確立されたもので、有効に活用されてきた。
ナラヤナ・コチャラコタと彼の一派がその存在を知らなかったこと、即ち、彼と彼の仲間がキンドルバーガーとミンスキーを研究したことが無く、ましてやフィッシャーやバジョットやミルも勉強しておらず、ケインズやヒックスについては耳を傾けるべき賢人としてではなく間違いの元として儀式的に非難すべき藁人形としてしか知らないことは、政治経済学の歴史における興味深いエピソードとして将来の世代の目に映るに違いない。しかし、マクロ経済学のコチャラコタ一門の失敗を、マクロ経済学全体の失敗と混同することはゆめゆめあってはならない。

ちなみに、Economist's ViewのMark Thomaは、この文章について以下のような感想を漏らしている(デロングもエントリを立ててそれを引用している)。

I'm not sure that, in general, people were as unaware of this work as Brad implies.
・・・
After all, if the proponents of modern macro had thought there was something to be learned from the Kindlebergers and Bagehots of the past, then those who were ignorant of what they had to say would have already read and absorbed this work. The fact that they didn't gives an indication of the value they thought it had. Hopefully that assessment has changed.

Economist's View: "A Missing Macroeconomic Playbook?"

(拙訳)
一般的に、デロングが言うほど人々が昔の研究を知らないのかどうかは良く分からない。
・・・
結局、もし現代マクロ経済学の推進者が、キンドルバーガーやバジョットといった過去の研究から学ぶべきものがあると思ったなら、彼らの主張に無知だったとしても、それらの著作を読んで吸収に努めただろう。そうしたことに努めなかったということは、彼らがそうした研究の価値をどのように評価していたかを物語っている。その評価が変化したことを望みたいものだが。

*1:小生は知らなかったが、ぐぐってみるとplaybookというのは一般的にはアメフトの戦術書(プレーブック)を指すらしい。

*2:この辺りは以前紹介したNick Roweの議論を想起させるが、案の定と言うべきか、このエントリ(と5/28エントリ)にRoweがコメントしている。

*3:ただし前日のエントリでデロングは、そうなるのはまだまだ先のこと、と書いている。