最低賃金引き上げの得失

7/26エントリのコメント欄では、大竹文雄氏が一橋大学の川口大司氏と森悠子氏による実証論文をブログで取り上げたことを教えてもらった。


この実証論文により、大竹氏は最低賃金引き上げ慎重論に舵を切ったようだ。氏は、該当エントリで以下のように論文の内容を紹介しつつ、最低賃金引き上げの政策効果に疑問を呈している*1

 世帯主についてみると、最低賃金で働いている人は、そうでない人にくらべて年収が低い。これは当然だろう。しかし、最低賃金で働いている労働者の約70%は、世帯主ではない。年収300万円以下の低所得世帯の世帯主となっているのは、最低賃金で働いている労働者の15%程度である。多数派の最低賃金労働者(最低賃金労働者の約50%)は、世帯年収500万円以上の世帯主以外の労働者である。最低賃金を引き上げることは、貧困世帯の所得を上げることには、あまり有効ではないことがわかる。最低賃金で働いている人の多くは、パートで働く中年の女性ということだ。
 それでは、最低賃金の引き上げは雇用にどのような影響を与えるだろうか。彼らの実証結果によれば、最低賃金引き上げによって10代男性および既婚中年女性の雇用が失われる。また、在学中の高校生の就業率が上がるそうだ。こうした効果は、最低賃金引き上げの意図通りなのだろうか。貧困対策としては、適した政策かどうか、今一度考えてみる必要があるのではないだろうか。

最低賃金引き上げの効果: 大竹文雄のブログ


これに対し、コメント欄でunk氏から以下のような反論があった。

最低賃金で働いている層がどういった層なのかを、きちんと実証したことは意味があると思います。

その意味で、最低賃金の変化が貧困層に与える影響は少ないということはわかりますが、なぜ後段で雇用喪失をそれほど懸念されるのかわかりません。もともとその層に貧困層は少ないのですよね?

雇用が減り労働密度が上がれば、ちょっと副業で働いている人より、生活がかかっている人のほうが残るでしょうし、そうなれば生活がかかっている人が最低賃金引き上げの恩恵にあずかれます。

世帯として余裕があるパート主婦や学生アルバイトにはちょっと遠慮してもらうというのが、ワークシェアとして正しいと思うのですが。

また、問題として大きそうなのは、学費を稼がなければならない貧困層の十代ですが、それこそ、民主党の就学支援のような政策で対応すべきだと思います。


ここで、両者の議論に大まかな数字のイメージを与えるため、極めて単純かつ乱暴な得失計算をしてみよう。


最低賃金が率xだけ上がった結果、最低賃金労働者の失業率が率yだけ高まったものとする。その場合、現在の収入をPとおくと、

  • 最低賃金引き上げの期待利益=収入が xP 増える(ただし失業しなければ)
  • 最低賃金引き上げの期待損失=失業してPを丸ごと失う確率がyだけ高まる

と考えることができる。すると、
 最低賃金引き上げの期待損益 = x(1-y)P - yP ≒ (x-y)P
となる。つまり、大雑把に言ってしまえば、最低賃金の上昇率と、その結果生じる失業率の増加幅の大小によって、最低賃金引き上げの得失が定まるのである。


では、上記の実証論文は、その関係についてどのように述べているだろうか。実は、論文では、最低賃金の上昇率と失業率の増加幅を直接には論じていない。その代わり、FAという変数を説明変数に用いて、FAの1%の増加が最大0.8%の失業率増大をもたらすとしている*2

このFAというのは、最低賃金引き上げにより影響を受ける労働者の割合である。論文のTable7では、2つの期間(1982-1987、1997-2002)における都道府県別のFAがまとめられているが、その全国平均は1982-1987が4.46%、1997-2002が1.50%となっている。一方、厚労省このページによると、それぞれの期間の最低賃金の全国ベースの引き上げ率は、16.2%と4.3%である。両者を比べてみると、最低賃金の引き上げは、概ねその引き上げ率の3割のFAをもたらすことが分かる。

これと先の実証結果を考え合わせると、最低賃金の1%の引き上げは0.8×0.3=0.24%の失業率上昇をもたらすという結果が導かれる。従って、上記の得失計算から言えば、最低賃金引き上げは当該労働者にとっては得、ということになる。

*1:ちなみに、7/30エントリでも再びこの話題を取り上げ、雇用減少をもたらすという前提の上で、最低賃金引き上げと行動経済バイアスの関係について論じている。

*2:論文では、3種類の年齢層(15-19、20-24、60-)の男女それぞれを推計対象として分析を行なったほか、25-59歳の既婚女性を対象にした分析を行なっている。係数が0.8%という最大値になったのは25-59歳の既婚女性を対象にした場合である(なお、論文では2種類のFAを使用しており、もう一つのFAを使用した場合の係数は0.4となっている)。