経済を名刺交換してみると。

一昨日紹介したカンザスブログの経済学者たち、およびビル・ミッチェルというオーストラリアの経済学者は、金融政策でマネーサプライがコントロールできるという考え方に否定的である。彼らは、7/18エントリで紹介したように、教科書的な貨幣乗数理論を否定しており、量的緩和の効果も否定している。
そこでさらに、民間の資金需要がマネーサプライを決めるのだ、中央銀行はそれに対し受動的にハイパワードマネーを供給するだけなのだ、と言ってしまうと、昔懐かし翁−岩田論争における日銀理論ということになるが、彼らの考えはその斜め上を行っている。というのは、彼らはハイパワードマネーをコントロールするのは政府の財政である、と主張しているからである。もちろん、中央銀行の準備預金操作といった金融政策もハイパワードマネーを増減させるが、彼らの中では、それはどちらかというと脇役扱いである。基本的に、彼らにとってハイパワードマネーとは、財政支出によってもたらされ、納税によって減少するものなのである。


ビル・ミッチェルは、その観点から経済を寓話的に描いたブログエントリを起こしているので、今日はそれを紹介してみる。クルーグマンの有名なベビーシッター協同組合の逸話と対比させて考えてみるのも面白いだろう(本エントリのタイトルも、その山形浩生氏訳のタイトルをもじって付けてみた)。

登場人物
親と子供
設定
子供が庭の手入れをする代わりに、親は週100枚の名刺を子供に渡す。子供にとって名刺自体の使用価値は無いが、家賃代わりの税金として、週100枚の名刺を親に納付しなくてはならない。

これは、政府(親)が課税によって貨幣(名刺)への需要を創り出し、それによって民間の資源(子供の労働)を公的部門(手入れされた庭)に移転することが可能になった、という状態をモデル化している。
ここで、子供が税金を払うためには、最初に親は名刺100枚を支出しなくてはならない。つまり、親への税金が収入としてまずあって、そこから支出を賄う、というわけではない。その逆である。
親は名刺を独占的に好きなだけ発行できる。これは不換紙幣の特徴である。実は名刺を物理的に発行する必要もない。PCの表計算ソフトのスプレッドシートに支出と収入を記入すれば、それで話は済んでしまう。


この状態では、親が100枚支払って子供が100枚納税するので、週ごとに財政が均衡している。半面、子供は貯蓄することができない。そこで、子供の貯蓄を可能にするために以下のように設定を変更する。

均衡財政の放棄
賃金を週120枚に増やす。ただし税金は100枚のままで変更しない。

これにより、子供は週20枚貯蓄できるようになる。ただし、その貯蓄額は親の赤字額にちょうど等しい(累積額も当然一致する)。


子供がさらに貯蓄を増やしたいと思ったらどうするか?

国債の発行
親が子供に、貯蓄を預けてくれたら、将来、利子(もちろん名刺の形で)を付けて返すという証書を手渡す。

これにより子供は貯蓄を殖やすことができ、数週間休みを取っても納税できるだけの蓄えの余裕ができるかもしれない。
これは、金利の付かない貯蓄(現実の銀行システムで言えば準備預金)を、有利子資産(国債)に交換したことに相当する。


ここで、親が突然ネオリベラル派の主張に目覚め、財政赤字は良くない、黒字財政こそ責任ある姿なのだ、と考えたらどうなるだろうか?

黒字財政の実現
税金は100枚のままで、庭の手入れへの支出を週90枚に減らす。

すると子供は納税に10枚不足する収入しか得られないことになる。これは民間部門での流動性不足の発生に相当する。
この場合、子供には3つの選択肢がある。

  1. 不足分を補うだけの労働を要求する。それが満たされなければ、不完全雇用(子供が複数いれば一部の失業)が発生する。
     
  2. 持ち物を売って名刺に代える。たとえば国債を売った場合、子供の資産が減少する一方、親の負債も減少する。ネオリベラル派の立場から言えば政府負債の減少は喜ぶべきことかもしれないが、子供の立場から見ると資産の減少は憂うべきことである。
     
  3. 国債以外の貯蓄を食い潰し始める。これも子供にとっては資産減少になる。


政府の財政黒字が続けば、民間の資産はやがて枯渇し、労働力は十分に利用されないままとなる。今度は民間が政府に対し負債を負うことで税金を払い続けるということも考えられるが、それは維持可能な選択肢ではない。


従って、政府は財政赤字を維持してハイパワードマネーを供給し、民間が資産を保有して経済活動ができるようにすべし、というのがミッチェル(およびカンザスブログの人たち)の主張である。