超国家的な金融規制はいらない?

少し前にロドリックとサイモン・ジョンソンが軽く火花を散らしていた(Economist's View経由)。テーマは、グローバルな金融市場の監督規制が是か非か、という点である。


サイモン・ジョンソンは、「静かなクーデター(The Quiet Coup)」と題された小論で、現在の米国の状況を、かつて彼がIMFでチーフエコノミストとして見てきたバナナ共和国やロシアの状況と変わらない、と断じている。即ち、金融業界が政府を取り込み、クローニー・キャピタリズムに陥った。ジョンソンはそうした金融機関を、(米国版の)オリガルヒと呼んでいる*1
ジョンソンに言わせれば、そうした場合のIMFの解決策は単純で、銀行の一時国有化によって不良債権を処理してバランスシートを綺麗にすると同時に、オリガルヒを解体し、独禁法の改正によってその再生を阻止する策を講じる、ということになる。
ただ実際には米国は発展途上国ではないので、IMFがそうした強制力を発揮する機会はなく、90年代の日本のようにだらだらと問題をひきずっていくことになるだろう、ともジョンソンは述べている(ただしその場合でも、世界恐慌の深化により果断な処理を迫られる可能性もある、とも述べている)。


このジョンソンの論説に噛み付いたのがロドリックで、彼は3/30ブログエントリで、

  • 銀行だけに責めを負わせすぎている
  • IMFを賢者扱いしているが、IMFもアジア危機などで多くの過ちを犯した

という点でジョンソンの主張を批判している。


Economist's ViewのMark Thomaは、上記のロドリックのジョンソンないしIMF批判の背景として、彼がかねてからグローバルな金融規制に反対していることを指摘し、上記のジョンソン批判を紹介したエントリで、彼の3/12エコノミスト記事*2も紹介している。
そのエコノミスト記事でロドリックは、グローバルな金融監督規制という考えには欠陥がある、と述べ、その理由として

  • 先進国の政府が、金融規制・監督の権限を国際機関に委譲すると考えるのは非現実的。また、IMFに最後の貸し手の役割を委譲するとも考えられない。BCCI事件の後も規制の国際機関を作ろうとしたが、失敗に終わった。
  • 仮に実現しても、合意した国際的な規制があさっての方向に行ってしまう恐れがある。実際、BISのバーゼル規制ではそうなった:
    • バーゼル1の自己資本規制はリスクの高い短期借り入れを促した
    • バーゼル2の信用格付けと銀行の自己モデルに資本のリスクウェイトを任せるという方針の結末はご覧の通り
  • 最も重要なのは、国によって金融の安定性と技術革新のトレードオフの望ましいポイントが違うこと。規制の在り方もそれによって変わってくる。

という点を挙げる。
ロドリックは、グローバルな金融規制のあり方として、各国家の規制の上に付け焼刃的に被せる程度の方が望ましい、と主張している。喩えるならば、WTOではなくGATTのように、各国政府の大幅な裁量の余地を残した最小限のガイドラインに留めるべき、というわけだ。

ちなみに、このロドリックの記事について、エコノミストのFree exchangeで議論の場が設けられている。その中で、Thomaやデロングは、全体に睨みを効かす最後の貸し手が存在する方が金融システムが安定したという歴史的な事例を引いて(e.g.イングランド銀行創設や大恐慌後のFRBの中央集権化)、やはりグローバル規制の方向に行くべき、という見解を示している。

*1:ただし、ジョンソンによれば、米国のオリガルヒが発展途上国やロシアのそれと違うのは、暴力や賄賂のような原始的な手段で政府と結びついていたわけではなく、思想の共有(ウォール街にとって良いことは米国にとって良いことだ、巨大金融機関と資本の自由な移動は米国の利益に不可欠)、および人材の流通(ルービン、ポールソン、スノー、ダン・クエールグリーンスパン、等々)によって結びついていたという点である。

*2:ロドリックによるとバリー・アイケングリーンとネタが被った2件目。