タレブ VS マートン

フェリックス・サーモンによると、「まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」や「The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable」の著者ナシーム・ニコラス・タレブが、ロバート・マートンに喧嘩を売っているらしい。


事の発端は、タレブのこの共著論文(2005年4月15日付け)。これによると、ブラック・ショールズ式の導出の前提となっているダイナミック・レプリケーションは実際には実行不可能で、本当はもっと現実的な仮定で簡単に導出できるとのこと。
以前のエントリで説明した通り、ブラック・ショールズ式の導出に当たっては、株価の確率過程を前提とし、コール1単位の売りと株式Δ単位の買い*1を連続的に行なえば、それが無リスクのポジションになることを利用している。しかし、そうした連続的なダイナミック・ヘッジングは現実には不可能だ、というのがタレブの批判である。タレブによれば、ブラック・ショールズ式の導出には以下が前提となっているが、いずれも現実にそぐわないと言う。

  1. σ(ボラティリティ)が既知で一定
  2. キャリーレートが既知で一定
  3. 取引コストが無い
  4. 摩擦がなく連続的に取引できる市場

では、もっと良い方法があるのか、と言うと、タレブは、コールの買いとプットの売りが、先物の買いと同じポジションになることを利用すれば、同じ式をもっと簡単に導出できる、と主張する。


サーモンの記事によると、マートンは、2005年12月付けの8ページの数式を書き連ねたメモをタレブに送り、タレブの考えがポートフォリオ理論に合わないことを説明したが、元々タレブはポートフォリオ理論を占星術並みにしか思っていなかったので、まったく説得されなかったという。
マートンがそのメモを公けにすることは無かったが、噂によると、生徒への課題にタレブの論文を使ったとの由。数ヵ月後、Doriana RuffinoとJonathan Treussardの名前で、「Derman and Taleb's The Illusions of Dynamic Replication: A Comment」という論文が現れた。TreussardはニューヨークのIntegrated Finance Limited (IFL)社でマートンの下で働いていたことがあったので、タレブはこれを事実上マートンによる反論と見なしたとのこと。
ちなみにこの論文では、タレブがプットとコールの両方について同じ(非確率過程の)割引率を使ったことを批判している。


タレブは、この共著論文*2の脚注でRuffino=Treussard論文に触れ、
オプション取引の実務家は、ストキャスティック・ディスカウント・レートなど使わずとも、プット・コール・パリティを使ってこれまでうまくやってきた。Ruffino=Treussardが言っているのは、科学者が鳥に飛び方を教えて、鳥が飛んでいるのを自分たちの成果だと言っているようなものだ、しかも教えた飛び方は間違っているのに」
と皮肉っている。


火曜日には、エコノミストに、Ruffino=Treussard側に軍配を上げるような記事が出たが、サーモンによると、この記事の著者もIFL社の元社員でマートンに師事していたという。
タレブは、こうした反論がマートンの弟子筋からしか来ないことを、マートン側の弱さの表れ、と見なして意気軒昂のようだ。
サーモン自身は、ブラック・ショールズ式が崩れたらポートフォリオ理論全体が崩れ、ウォール街のクォンツたちが職を失ってしまうので、彼らはマートンが特に指示しなくても反論しているのではないか、と推測している。


なお、少し前に、サーモンは、ファイナンス経済学者にノーベル賞を与えるのをやめるべき、という公開書簡を紹介している。その書簡を書いたトリアナ氏は、タレブと共同で、
「今回の金融危機を招いたポートフォリオ理論の欠陥を知りながら黙っていたクォンツたちは、殺人事件を目撃しながら行動を起こさなかった傍観者と同じだ」
という主旨の少々過激な記事を12/7のFTに寄稿している。
前述の(Ruffino=Treussardを擁護した)エコノミスト記事は、このトリアナ=タレブ論説にも触れ、以下のように書いている。

Messrs Taleb and Triana do make a good point that assigning a precise value to these assets has its problems. But, models such as Black-Scholes really are meant to act as a road map. It does not include every detour and cannot predict every accident that might occur, but it does give you some guidance as to what the asset is worth.


実践が失敗したから理論も失敗、葬り去るべき、というタレブの主張はいかにも実務家らしい。ちなみに、タレブ自身がアドバイスしたファンドは、2008年は10月までに50%の収益率を上げたという*3
しかし、ブラック・ショールズ式も所詮モデルに過ぎず、クルーグマンの言葉を借りれば、メタファーに過ぎない。その中で数学的論理の完結性を求めるのは、別にマートンファイナンス経済学だけの悪癖ではなく、経済学全体に亘って適用される手法である。その点で、タレブは明らかに経済学におけるモデルの位置づけを勘違いしており、上記のエコノミスト記事もその点を衝いている*4
また、ファイナンス理論における正規分布の仮定に対する批判も今に始まったわけではなく、マンデルブロ経済物理学などそれなりの歴史がある


ただ、ファイナンス理論の場合は投資という形で他の経済理論に比べ実地に応用しやすく、そのため欠点も目立ちやすいのは確かである。

とはいうものの、タレブのようにいい加減な論文で批判を振り回し、徒にファイナンス理論の廃止を訴えても、問題の解決にはつながらないこともまた確かのように思われる。
その点は、タレブの講演を聴いた人によるこのブログエントリでも批判されている。

This crisis has offered plenty of food for thought and plenty of lessons to munch on. But Taleb’s proposals are impractical, inefficient and, arguably, boring.

*1:タレブの論文では売りと買いを逆にしているが、導出のロジック上は差は無い。

*2:注:元のサーモン記事ではリンク先URLが不正確。

*3:ちなみにこのブルームバーグ記事では
“同氏はただ、現在の危機は予測不可能だったブラック・スワンではなく、想定されていた「ホワイト・スワン」だと指摘。「私は危機が来ると思って、心配していた」と語った。”
と書かれている。一方、2008年3月のブルームバーグ記事では、ブラック・スワンがうまく危機のタイミングにマッチして売り上げを伸ばした様子を描写している。

*4:あるいはサーモン記事にコメントした人たちが言うように、そもそも気にしておらず、とにかく宣伝になれば良い、と考えているのかもしれないが。