マクロ経済学はどこまで進んだか/James Tobin

昨日エントリで紹介した本の内容を、以前、「経済学者」×「質問への回答」のマトリックスにまとめたことがあったので、今日からはそれをアップしていく。
まずはJames Tobinから。

James Tobin(1918-2002)

1981年ノーベル賞
米国で最も高名なケインズ学派の経済学者
トービンの分離定理が有名

ケインズおよびケインズの一般理論について】

マルクス、シュペングラーの資本主義滅亡論に対し、ケインズは、問題は経済の組織全体ではなく総需要をコントロールする手段だ、と主張した。ケインズは、資源配分について深く追究した(必ずしも成功しなかったが)。
経済は制度上、2つのモデルに区別して考えられる。

・古典派
生産能力が生産を決定(資源配分は機会費用[資源利用で利益が上がるか]で決定)→価格&所得に影響→需給均衡。
ケインズ派
生産の増大は総需要の増大によってもたらされ、遊休資源を生産につかせることによってもたらされるわけではない。生産要素に本来の生産性を超えて報酬が支払われることはない。

ケインズが生きていたら第一回ノーベル賞を受賞していたか?+ノーベル賞関連】

十分ありうる。

ピグー効果

ピグー効果(価格下落が富の価値の増大を招き、消費を拡大させる効果)はケインズ理論の貢献を弱める逆の働きをした。自己調整機能の効力に異議を唱える困った存在。(ピグー効果の前提で)問題になるのは、人々が賃金低下を受け入れるかという点。ピグー効果の議論の中には時間の流れと言うものが問題にされておらず、静学的な比較をしているに過ぎない。

大恐慌について】

ケインズの考えが速やかに人々の心をつかんだのは、一般理論で展開されている理論が大恐慌をひょっとしたら首尾よく救済してくれると人々が期待したためだろう。

【一般理論に関する多くの論争について】

この本は多くの点で野心に満ちていて、様々な主張を支持するために引用できるのに都合よくできているとも言える。

新古典派総合について】

一般理論は古典派モデルの一つの特殊ケースを扱っているという新古典派総合の見解には反対。経済の制度に関する2つのモデルの一つと考えるべき。

マネタリズムについて】

貨幣需要は利子弾力性を持たないというフリードマンの考え方は、完全雇用のもとでのみ成り立つ特別なケース。ただ、フリードマンは、貨幣政策は景気の動向によっては実物経済に何らかの影響を及ぼすということは否定していない。フリードマンが独断的なマネタリストと呼ばれるのは、主張の理論付けや実証分析が十分になされていないため。

【合理的期待形成仮説ないしニュークラシカルについて】

合理的期待形成仮説がケインズ理論の欠陥を正すために生まれた、という説を受け入れるわけにはいかない。期待という概念を明示的・動態的に分析に取り入れて議論するのは良いことだが、議論の展開に必要な変数について誤って理解し、それをいつまでも使おうと考えているようだ。ある点では、政策は人々によって前もって予期される、とするルーカスの考えは意義ある考えだと思うが、彼自身が考えるほど素晴らしいとは思わない。というのは、その巧妙な理論からは政策的意味合いが理解され得ないからだ。また、貨幣供給とは何かという問題についてルーカスははっきりした考えを示さなかったため、この理論は生き残れなかった。成長を重視するバローとルーカスの二人は、無闇に需要重視のマクロ経済学の考えをぶち壊してしまって、野原に捨ててしまい、もうマクロ経済学は必要ないと言っているように思える。マクロ経済学は需要不足問題が起きたときに政策を提言することができ、その意味で、マクロ経済学が必要なのは、たとえ交差点で自動車事故が無くなったとしても信号が人々の生活に必要なのと同じこと。

【ニューケインジアンについて】

ニューケインジアンは、合理的期待、選択理論の基礎、代表的行為、市場清算仮説(市場での需給の一致)といった様々な考えを受け入れている(だが不完全競争の考え方は受け入れていない)。彼らはケインズの考えには無かった合理性という考え方で、価格・賃金の硬直性を説明しようとしている。合理性がケインズの考えていた実質的需要ショックをもたらすことは考えられるが、しかし、メニューコスト理論が恐慌の原因を突き止めるというのはナンセンス。ケインジアンの名に値しない。

【リアル・ビジネス・サイクル仮説について】

マクロ経済学の末端にあるいわば論敵。景気循環の原因をうまく表現してはいるようだが、ケインズの意味での失業の発生原因を説明してはいない。現在の雇用と将来の雇用には異時点間にわたる代替があるという考え方は理解できない。

【成長理論について】

内生的成長理論は成長問題を論じるのに役立った。総需要不足の問題は先進国で有り余る贅沢品をどうするかという問題であり、発展途上国の生産性や健康水準を高めることがはるかに価値のあること。ただ、生産要素の外部性を重視したり、収穫逓減という考え方を打ち破ろうとしている内生的成長理論にそれなりに興味はそそられるが、この理論が確かに大丈夫という確信はまだ持てない。

非自発的失業完全雇用

非自発的失業という概念をもう使わないほうが良いというルーカス(1978)に従う必要はない。ある価格のもとで需給が一致しないときに非自発的なものが生じる。完全雇用の定義は私はケインズに従い、古典派の考えと大きく違って定義したりはしない。雇用主が支払うことができ、また支払っても良いとする実質賃金を受け入れて労働者が働くというのが完全雇用

【1970年代のオイルショックおよびスタグフレショーンについて】

1970年代半ばから労働市場の状況は悪化し、50年代、60年代の状況に戻ってしまった。その要因は労働組合の発言力の低下、首切りなどの厳しい雇用政策、外国財との熾烈な競争など多くある。しかし、そのような状態を作り出したのは、ニュークラシカルの人々は認めたがらないが、スタグフレーションにある。

【自然失業率とNAIRU、およびフィリップス曲線について】

フリードマンが自然失業率を考えついたとき、心の中に一種のフィリップス曲線(彼はそう呼んでいないが)のようなものを描いていたのではないか。NAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)と自然失業率の二つの理念は基本的に大きな違いはない。自然失業率はワルラス一般均衡方程式で解決される失業の大きさだ、とフリードマンは述べたが、しかし、いったいワルラス方程式がどんな失業問題を扱っているというのか。従って、自然失業率という考え方は意味をなさず、正しくない。モジリアニ等がNAIRUについて語りだしたときは、もっと現実的な側面について語っていたのではないか。[1993.2インタビュー]


フリードマンの「貨幣政策の役割」(1968)および自然失業率の考えは、ニュークラシカルやリアル・ビジネス・サイクルなどのマクロ経済学に大きな影響を及ぼし、主流マクロ経済学の核となった。しかしその影響は学術の世界に限られるだろう。NAIRUは優れた考え方だが、自然失業率と同じものではない。また、両者はここ数年間の経済的変動に惑わされている。さらに、長期にわたって垂直なフィリップス曲線が成り立つという考えは、低インフレのもとでインフレと失業にトレードオフの関係があるとする私の主張に相反する。[1998.1-2往復書簡]

【経済政策について】

インフレ対策は、サッチャーの言うようなマクロ経済政策の一番の目標ではなく、もっと下のほうの目標だ。財政政策については、一方でクラウディングアウトの問題があるが、他方で経済が弱っているときの財政赤字削減は生産の低下につながる。患者の容態に合った医療を施すことが必要だ。所得政策は1979年に始まりつつあったディスインフレには効果があり、インフレが再燃すればまた必要になるだろうが、インフレ懸念のない今は必要ない。
欧州の高失業率とEMUの問題は私の手には負えない。ただ、欧州の高失業率を作り出したのはマクロ経済政策がしっかりしていなかったせいと思う。拡張的な政策は、短期のフィリップス曲線がかなり平らな場合は効果が乏しいが、いずれにしろ欧州では取り入れられておらず、何か失業解消政策の導入に構造的障害があるのかとさえ思える。英国ではサッチャーの組合叩きが役立ったのかもしれない。欧州大陸の構造的問題はヒステレシス効果を反映しているのではないか。1979-82年の不況がこじれて一時的失業が構造的失業になったのだろう。EMUは失業問題に大きな力は発揮しないだろう。EMUメンバーの各国政府はEMSのもとで自国に合ったマクロ経済政策手段を持つのは難しく、EUの財政政策出動といってもその手段すら今のところ無い。

【経済学者間の意見の一致について】

経済学分野での秀でた論文は、人々をおやと思わせるような意外性があるものだ。[かつての言葉]


議論の対立が一致するきざしはあるかも知れないが、私には全く見えていない。[1993.2インタビュー]


おそらく理論面で意見の一致はあった。理論面ではケインズ理論を無視しようという考え方がはびこっている。しかし一方で、現実的なマクロ経済学では、あまり役に立たないマネタリズムは死に絶えたにも等しいから、ケインズの考えを大いに取り入れざるを得ないという考えもある。[1998.1-2往復書簡]

【マクロとミクロの関係】

マクロ経済学のモデルは、ミクロ経済学の基本的な理論の上に構築されるものなので、ミクロ経済学の基礎はマクロ経済学にとっては重要。だが、過度の重要視は、マクロ経済学の基本的な特性を損なう恐れがあるので避けるべき。両者を間違って結びつけたらマクロ経済学は間違った方向に行ってしまうのではないかと懸念している。
[経済学者がマクロ経済学の問題で意見が異なることが多いが、ミクロ経済学の問題では意見の一致が見られるのはなぜか、という質問に対し]私自身も含めて、ケインズはああ言った、こう言ったと言い過ぎるのではないか。
ミクロ経済学の分野では、選択理論の一つである収益−費用の分析が大いに効果を発揮しているが、他の社会科学はその利点をあまり認識していないようだ。

【経済学と数学】

合理的期待がマクロ経済学になしてきたことは、ゲーム理論ミクロ経済学に対してなしてきたことと同じ。ゲーム理論は複数解を導くという問題が絶えず付きまとい、一向にすっきりした結果が得られない。ゲーム理論も合理的期待と同様、議論展開に数学を使用してパズルを解く楽しみをもたらしているようだが、実証分析や制度・組織の研究をないがしろにしている。従って、ゲーム理論ミクロ経済学でそう大きな仕事はしていないのではないか。