マクロ経済学はどこまで進んだか/Mark Blaug

引き続き、7/7エントリで紹介した本の内容まとめ。今日で最終回。

Mark Blaug(1927-)

方法論、経済史

マクロ経済学の発展に影響を及ぼした論文・著作】

ケインズ以前(19C-20C初め)]
フィッシャー「貨幣の購買力」(1911)に代表されるように、当時のマクロ経済学は貨幣数量説によって成り立っていた。ケインズ以前で最も影響力のあったマクロ経済学者はK.ヴィクセル。彼の2番目の本「利子と価格」(1898)の実質利子率(自然利子率)は後にフリードマンが失業を分析する時に用いられた。ミーゼスはヴィクセルの理論をオーストリア学派景気循環論に組み込んだが、後にケインズによって抹殺されてしまった。今ではミーゼスはハイエクとの接点で耳にするくらいだが、オーストリア学派景気循環論は今も学生に教える価値がある。ヴィクセルを別にすれば、1910-20年代景気循環論を発展させたのはデニス・ロバートソン。彼の考えが後にリアル・ビジネス・サイクル論に取り入れられた。
ケインズ以後]
フリードマン。AEA会長就任講演は、戦後期に発表されたマクロ経済学に関する論文の中で最も影響力のあるものと言っても良い。彼は、方法論についての論文と貨幣政策の役割についての論文の二つで大きな業績を上げた。フリードマンロナルド・コースの二人が引用文献リストのトップ。(個人的はニュークラシカルは好きになれず、合理的期待も信じていないが、影響力だけを考えれば)ルーカス。

【影響を受けた経済学者】

高校からUCLAバークレー校時代は、ヘンリー・ジョージ(「進歩と貧困」(1879))、マルクス。ただし経済学を学ぶにつれ両者への信頼は低下。経済思想史ではジョセフ・ソウデク。コロンビア大学院時代はジョージ・スティグラー。

ケインズおよびケインズの一般理論について】

ケインズ経済学の核心は、それまで200年もの間経済学の考えの中核をなしてきた完全雇用というパラダイムを破り、資本主義経済は完全雇用の状態に自動的に戻るという考えを拒否したことにあった。
一般理論のある部分は学生たちは今も読むべきだが、一冊全部読む必要は無い。この本は確かに難しい本なので、初めの段階としては拾い読みすればよい。私は、ルーカスと違って一般理論はやはり天才がなした真の業績だと思う。

ケインズが生きていたら第一回ノーベル賞を受賞していたか?+ノーベル賞関連】

ルーカスと同じく、私も不完全競争理論を打ち立てたジョーン・ロビンソンが第一回受賞者でなかったので驚いた。決定方法が一般に知らされていないのはノーベル賞についての疑問点。

マネタリズムについて】

フリードマンの1968年の論文は、完全雇用を是とするパラダイムの完全復活をもたらす重要な役割を果たした。フリードマンが自分の理論の中心に(時間の概念を取り入れるため)貨幣というものをどっしりと据えたという事実を高く評価している。

【合理的期待形成仮説ないしニュークラシカルについて】

フリードマンの考えがルーカス、サージェント、ウォーレスへと必ずしも十分に浸透していかなかったという事実は興味深い。この三人の考えはフリードマンの考えを完全に超えており、時間という考えを無視したような命題を次から次へと作り出した。それらの命題は、頭の中で考えた時間をもとにして組み立てられており、現実的な時間でも歴史的な時間でもない。

【ニューケインジアンについて】

ニューケインジアンの考えは市場の働きというものを深く知るためには確かに役立った。しかし、ケインズマクロ経済学新古典派的な合理的選択の構図を結びつけようとしたのは間違っていたのではないか。人々の行動はいつも合理的であるという考えは果たして正しいのか考え直してみる必要がある。効率賃金論やインサイダー・アウトサイダー論は私には良く分からない。

【リアル・ビジネス・サイクル仮説について】

リアル・ビジネス・サイクル論は今盛んにもてはやされているが、一時的な流行ではないか。

【成長理論について】

内生的成長理論は成長論を舞台の中央に引っ張り出したという意味で意義があった。しかし、これまで遅々として展開されてこなかった、いくつかの難しい問題を意識的に避けてきたのではないか。新しい成長論は、1960-70年代の人的資本の重要性を訴えた多くの実証研究を無視し、テクニックに走って数学的手法を取り入れたモデルを主として構築することにのみ注意を払うという方法を取った。人的資本や研究開発が成長に及ぼす影響について、それらが持っている外部効果や規模の経済性といった側面に焦点を当てて技術的に解決しようとしたが、大きな成果が上がっているように見えない。成長は内生的だという事実は認めるが、新しい成長論はそれを実証分析で明らかにしているとは思えない。

【自然失業率とNAIRU、およびフィリップス曲線について】

フリードマンは、垂直的な長期フィリップス曲線は瞬時にしてもたらされるものだという考えを絶対に支持しなかった。彼は、負の傾きを持つ短期フィリップス曲線の存在を絶えず主張してきた。フリードマンは、短期と長期のフィリップス曲線との区別について、時間というものを用いて解決しようとした数少ないマクロ経済学者のうちの一人。それも、12-18ヶ月、もしくは3-5年の時間の差があると主張した。ルーカス、サージェント、ウォーレスなどの研究には「瞬時に」という言葉が良く出てくるが、一体いつを指しているのか分からない。仮にその時間差が1週間や1ヶ月でも、需要を管理したりして実質的な生産と雇用に随分違った影響をもたらすだろう。

【経済学者間の意見の一致について】

「経済に関する様々な問題を解決するために必要な基本的知識をもたらす方法論は、つまるところ哲学であり、その哲学もカール・ポパーとイムレ・ラカトスの考えにもとづいたものである。「反証可能性」の理念を極力追究していくのが経済学の主な仕事だ、と私は信じる」と「経済学の方法論」(1992)で主張したが、ポパーリアニズムや「反証可能性」の考え方とは1960年代後半から70年代の初めにスティグラーやフリードマンとの個人的な接触から出会った。フリードマン「実証的経済学の方法論」(1953)は最初私を虜にし、近代経済学全般に大きな影響を及ぼしたが、今では私は俗流ポパーリアニズムの一つとして接している。ポパーは大変洗練された考えの持ち主で、仮説などはたいして重要ではなく予言が重要だ、などというセリフは口にしていない。ラカトスの考えはポパーよりもより洗練されている。ラカトスによれば、ある理論が無効だというには、それに対するすべての反証を検討する必要があるが、それですら競い合う理論との関連で無効だといえるだけである。方法論とはある問題の基本的な理論をお互いに論議させることを意味しており、単純に方法そのものを意味しているのではない。そのことがなかなか理解してもらえず、混乱をきたしており、方法論そのものの考え方が嫌いだという経済学者もいる。フリードマンがしっかりした理論はどんな議論を挑まれても十分耐えうるような予言の上に構築されている理論のことを意味する、と言ったのには同意。理論がしっかりした演繹的な構造をもっていなければ、仮定から予言への流れが無意味になる。その際、経済理論を組み立てる基礎となる仮定が現実に意味のあるものでなければならないと思うが、フリードマンは問題なのは予言だけだと考えているようだ。
今回のインタビュー集を見ると、方法論は二つに分かれているようだ。一つは実証重視派の考えだが、このように実証分析の裏付けの大切さが主張される割には、実際にそれが実行されることは滅多にない。もう一つはルーカス「景気循環論における方法と問題点」(1980)で主張されるような実験重視派。経済理論はそれ自体が実験室のようなものであり、経済学者はその理論が持っている技術的特性等を調べることによってその理論が役立つかどうかテストすることができる、と彼はその論文で主張している。また、理論展開によって得られた係数を調べてモデルを調整できる一種の知的な実験とも言っている。従って、実証的な裏付けは必ずしも必要ではなく、様々な数学的モデルを構築し、それを比較検討しながら使っていくということだろう。

【経済学と数学】

「経済学は確かに科学だが、数学の一分野ではない」「多くの人々は、経済学をあたかも数学の中の一つの分野とみなして、経済学の理論を数学に組み入れようとばかりしている」というクラワーの意見に賛成。価格、市場、商品といった言葉が今や数学の言葉のようになっているが、経済学の分野でしか使えない言葉を数学的にどうやって言い表せるのか。経済学者は、ますます数学を憧れの目で見るようになり、これまで憧れていた物理学を袖にしたというマックロスキーの意見に同意。物理学者は実験や実験で得た結果を大切にしているが、そちらの方がまさに経済学的ではないか。
「経済学は現実的な経済問題を扱う学問というよりは、むしろ神秘的な数学の一分野になってしまった」というフリードマンの意見に賛成。理論的な展開の正しさを証明していくのは実証分析であり、それを実行するのは計量経済学である、と思われがちだが、私はフリードマンが「貨幣の歴史」(1963)で行ったような比較歴史的分析が大切かつ有効と思う。本来計量経済学の仕事は様々な経済理論の中から正しい理論を識別する手助けをすることだったはずだが、現実には一層混乱させているようだ。サマーズやサミュエルソンも同様の指摘をしている。
経済学は、議論を構築する際に厳しい精密さが要求されることと、精密さだけでは問題が解決しない漠然とした曖昧さのトレードオフで成り立っている。世の中の人々が直面している経済問題は多分に厳密さや精密さだけで解決されるようなものではなく、時として非厳密さや非精密さなどが大切になる。社会科学を数学的に分析しようとすると、分析の対象としている問題の本質はどこかへ置き去られてしまうことが往々にしてある。最近の数理経済学者は数学を道具として有効に使おうとしているものの、数学は限定された道具にすぎないということにようやく気づくようになった。厳密さだけを重視する専門家がどんどん増えるのは気になる。