ばらつく統計的生命価値:米陸軍再入隊の決断による実証研究

以前ここで取り上げた統計的生命価値(VSL)について、一風変わった切り口で推計した表題のNBER論文が上がっている。原題は「The Heterogeneous Value of a Statistical Life: Evidence from U.S. Army Reenlistment Decisions」で、著者はKyle Greenberg(ウエストポイント陸軍士官学校)、Michael Greenstone(シカゴ大)、Stephen P. Ryan(セントルイス・ワシントン大)、Michael Yankovich(ウエストポイント陸軍士官学校)。以下はその要旨。

This paper estimates the value of a statistical life (VSL), or the willingness to trade-off wealth and mortality risk, among 430,000 U.S. Army soldiers choosing whether to reenlist between 2002 and 2010. Using a discrete choice random utility approach and significant variation in retention bonuses and mortality risk, we recover average VSL estimates that range between $500,000 and $900,000, an order of magnitude smaller than U.S. civilian labor market estimates. Additionally, we fulfill Rosen's (1974) vision to recover indifference curves between wealth and non-market goods (e.g., mortality risk) and document substantial heterogeneity in preferences across types. We find that the VSL increases rapidly with mortality risk within type, and that soldiers in combat occupations have much lower VSLs than those in noncombat occupations. We estimate that the quadrupling of mortality risk from the Afghanistan and Iraq wars reduced annual welfare by $2,355 per soldier, roughly 8 percent of pay.
(拙訳)
本稿は、2002年から2010年に掛けて再入隊するかどうかの選択を行った43万人の米陸軍兵士の統計的生命価値(VSL)、即ち富と死亡リスクを交換する意思を推計した。離散選択ランダム効用手法と、残留特別手当と死亡リスクの有意な変動を利用して、我々は平均的なVSL推計値を求めた。それは50万ドルと90万ドルの間に分布しており、米市民の労働市場での推計値より一桁少なかった。また我々は、富と非市場財(例えば死亡リスク)の無差別曲線を求めるというRosen(1974)*1のビジョンを達成し、兵士のタイプによって選好に大きなばらつきがあることを実証した。同じタイプの中では死亡リスクとともにVSLは急速に増加し、戦闘職に就いている兵士は非戦闘職の兵士に比べてかなり低いVSLを有していることを我々は見い出した。アフガニスタンおよびイラク戦争で死亡リスクが4倍になると、一兵士当たりの年間の厚生は2355ドル、給与のおよそ8%分低下したことを我々は見い出した。


シカゴ大のHPには解説記事も上がっており、そこからungated版にもリンクしている。以下では同記事から研究のポイントをピックアップしてみる。

  • 現在のVSLの推計手法には以下の3点の批判がある:
    1. 現在のVSL推計では定数値を推計しており、個人による選好の違いや、リスク水準の違いによる個人の評価の違いを反映していない。例えば自分や他人の生命のリスクを犠牲にしても他者よりも速く行きたいことがあるかもしれない。同様に、非常にリスクの低い環境にいる時は、高いリスク環境にいる時に比べ、安全性を増す支出への意欲は低いかもしれない。現在のVSL推計ではそうした違いを織り込んでいない。
    2. 非市場財・サービスへの死亡リスクの影響を決定するのは容易ではない。多くの要因が絡んでおり、前例を敷衍するならば、道路上で最も安全な車を持っているためにより速く行きたいのかもしれないし、あるいは道路に危険なカーブが無いのかもしれない。
    3. 人々は、環境ごとの死亡リスクを単に知らないかもしれない。生活の上では様々な選択をする必要があるが、例えば、ある職業を選択した時、汚染工場の風下に住むことを選択した時、制限速度を超えて運転することを選択した時などがそうした環境の例として挙げられる。こうした要因は実証結果から求めた価値の評価を特に難しくする。
  • 著者の一人のMichael Greenstoneは、道路の安全性について次のような例を示した。各人が自分だけの道路を持ち、それにバンパーを並べれば、米国の道路での死亡率はゼロ近くまで低下する。だが、それに必要なコストと空間を考えれば、このプランに同意する人はいないだろう。逆の極端な例としては、すべての道路で速度制限とガードレールを撤廃することが考えられるが、それも誰も同意しないだろう。社会はその中間でトレードオフに基づく選択をすることになる。
  • 米国のデータについての一連の研究は2019年の米ドルでVSLを1000万ドルと推計している。一方、連邦政府は2020年の米ドルで1160万ドルという数字を用いている。これが高いか低いかは人によるし、状況にもよる。そうしたばらつきは静的なVSLでは捉えることができないが、本研究ではその問題に取り組んでいる。
  • 上級兵を再入隊者に頼っている志願制度の軍隊にとって、コストと死亡リスクの間の選択は緊急性のある問題である。また米軍は、国防総省と退役軍人局の予算も含め年間1兆ドル支出しているほか、25-44歳の男性の7.5%、女性の1.7%は軍人もしくは退役軍人である。従って、米軍の運営は公的政策の意思決定のかなりの割合を占める。
  • 今回の研究対象である米陸軍の再入隊特別手当は、職種と時期によって大きく変わり、交渉の余地は無い。2002-2010年の期間では、4年間の戦闘工兵としての再入隊特別手当は0から18,600ドルの間で変動し(平均4100ドル)、人的情報収集業務については0から37,900ドルの間で変動した(平均11,000ドル)。
  • 研究対象期間は、平和な時期に始まり、アフガニスタンイラク戦争が最も激戦だった時期に及んだ。その間、死亡率は4倍以上となった。死亡率は職種間および職種内でも変動し、歩兵の4年間の死亡率は2002年から2007年に掛けて600%増となった(1000人当たりの死亡者数が3.5人から24.6人になった)。同期間の車両工兵の死亡率は145%増だった(1000人当たりの死亡者数が2.0人から4.9人になった)。
  • 主な研究結果:
    1. 特別手当が高いと再入隊率は上がり、死亡率が高いと下がる。4年任期の特別手当が1000ドル上がると、再入隊率は0.46%ポイント上がる。この期間の通期の再入隊率は45.3%、兵士の年間給与はおよそ3万ドルで、平均特別手当は2003年から2006年に掛けて11,000ドル上昇した。一方、4年間の1000人当たりの死亡率が1人増えると、再入隊率はおよそ0.26%ポイント下がる。全体の1000人当たりの死亡率は、2002年の最低値から2007年の最高値まで7.2人増加した。
    2. 観測された死亡率の範囲において兵士全体について推計した平均VSLは、50万ドルと90万ドルの間だった。この推計値は正確なものであり、上述の米労働市場研究全体のVSL推計値の中央値1000万ドルよりかなり少ない。
    3. 今回の研究は、富と死亡率の間のトレードオフに関する決定に不均一性を織り込もうとする何十年にも亘る研究課題に回答を与えるものである。VSLは死亡リスクが増加すると急速に増える。また、陸軍兵の中でも職種によって大きな違いがある。「最も勇敢な兵士」(即ち、VSLが最も低い兵士)は、予想通り最も危険な職種に就く。
  • 具体的な数字としては、1000人当たりの予想死亡率が1人である非戦闘職に就く人の推計VSLは71万7000ドルで、死亡率が1000人当たり5人になると166万7000ドルと倍以上に増える。戦闘職の人のVSLが166万7000ドルに達するのは1000人当たりの死亡率が23人を超えてからである。それは死亡率の分布で97%点に相当する。
  • 4年間の死亡率が1000人当たり8人の時、非戦闘職のVSL(280万8000ドル)は戦闘職(37万4000ドル)の7倍になる(下図)。戦闘職に就く人はこのことを認識して再入隊している(経済学用語で言えば、歩兵は自己選択している)。

f:id:himaginary:20210815002310p:plain

  • こうした計算は机上の空論ではなく、効果的な政策の形成に役立つ。
    • 例えば2005年に米陸軍は全職種に対し強化された防弾チョッキを支給し始めた。一着当たり760ドル、総額2億ドルで、死亡率が15%減ると推計された。
    • 今回の研究の57万5000ドルというVSL推計値は、350人の命が救われれば、2億ドルの防弾チョッキ支給計画が厚生改善的であることを意味する。2003年から2007年に掛けてイラクで4000人近くの兵士が死亡したことを考えれば、この計画は不合理なものではない。
    • しかし、上記の費用便益分析は単一のVSLから導かれている。VSLには職種によってばらつきがあり、男性トラック運転手のVSLは約273万ドルであり、歩兵のVSLは42万8000ドルである。強化された防弾チョッキによって死亡率がすべての職種に亘って15%減れば、男性トラック運転手にとっては厚生改善的となる。しかし、歩兵が防弾チョッキに払う金額は単価を下回る*2。従って、死亡率が増加する中で再入隊率を一定に保つという目標の下で2005年に厚生を最大化する政策は、強化された防弾チョッキをトラック運転手に支給し、特別手当の増額で歩兵の人数を保つ、ということになる。

*1:cf. これ

*2:論文本文の計算を引用すると、男性トラック運転手が防弾チョッキに進んで払う金額は(7.8/1000)×0.15×2,730,000=3,194で、歩兵が払う金額は(11.3/1000)×0.15×428, 000=725。