アデア・ターナーが、近年の生産性の伸びの停滞からするとソローパラドックスはますます強まっている、と表題のProject Syndicate論説(原題は「Is Productivity Growth Becoming Irrelevant?」)で論じている。そして、投資の低迷*1、技能の不足、インフラの劣化、過剰な規制*2、企業間の技術格差*3、期待外れに終わっているIT、といった巷間良く挙げられる説明よりも問題の根は深いのだ、と主張している。ターナーによれば、生産性の伸びは豊かな社会では必然的に鈍化するもので、一人当たりGDPはもはや人々の厚生の指標とはならないのだという。
Our standard mental model of productivity growth reflects the transition from agriculture to industry. We start with 100 farmers producing 100 units of food: technological progress enables 50 to produce the same amount, and the other 50 to move to factories that produce washing machines or cars or whatever. Overall productivity doubles, and can double again, as both agriculture and manufacturing become still more productive, with some workers then shifting to restaurants or health-care services. We assume an endlessly repeatable process.
But two other developments are possible. Suppose the more productive farmers have no desire for washing machines or cars, but instead employ the 50 surplus workers either as low-paid domestic servants or higher-paid artists, providing face-to-face and difficult-to-automate services. Then, as the late William Baumol, a professor at Princeton University, argued in 1966, overall productivity growth will slowly decline to zero, even if productivity growth within agriculture never slows.
Or suppose that 25 of the surplus farmers become criminals, and the other 25 police. Then the benefit to human welfare is nil, even though measured productivity rises if public services are valued, as per standard convention, at input cost.
(拙訳)
我々の標準的な生産性成長の思考モデルは、農業から工業への移行を反映している。100人の農家が100単位の食料を生産している状況が出発点となる。技術進歩によって50人で同量の食料が生産できるようになると、残りの50人は洗濯機や自動車などを生産する工場に移り、全体の生産性は倍になる。農業と製造業の生産性が一層高まり、労働者の一部がレストランや医療サービスに移れば、生産性がさらに倍増することも可能である。我々はこうした過程が無限に繰り返されることを仮定している。
しかし、2つの別の展開も可能である。生産性が高まった農家が洗濯機や自動車を欲しがらず、50人の余剰労働者を低賃金の召使や高給の芸術家として雇うことが考えられる。彼らは、対面かつ自動化が困難なサービスを提供する。すると、プリンストン大教授だった故ウイリアム・ボーモルが1966年に論じたように、仮に農業内部の生産性の伸びが全く鈍化しなかったとしても、全体の生産性の伸びは徐々にゼロまで低下していく。
もしくは、余剰労働者の25人が犯罪者となり、残りの25人が警察官になることも考えられる。この時、通常の手順に従って公共サービスを投入コストで評価すれば、測定される生産性は上昇するが、人々の厚生への寄与はゼロである。
現実世界での自動化が困難な低賃金のサービスの例としてターナーは、英国で伸びているデリバルー*4の自転車配送サービスを挙げている。また、米国の労働統計局が最も伸びている10職種を集計したところ、うち8つが家庭での介護や医療介護などの低賃金サービスが占めたという。
ただ、高度の人材を投入しつつも人々の厚生の向上につながらず、経済のパイの取り合いになるような「ゼロサム」活動の方がもっと重要である、とターナーは言う。そうした例としてターナーは、法的サービスや警察や刑務所、サイバー犯罪とそれを防ぐ専門家、金融規制当局者とそれに対応するコンプライアンス責任者、米選挙活動に投入される膨大な資源、既存の資産の取引を円滑化させる不動産サービス、および、多くの金融取引を挙げている。さらに、デザインやブランディングや広告も、基本的にゼロサムだ、と断じている。それ自体の創造性、および、それが影響を与える選択に価値があるとしても、2050年のデザインとブランドが2017年のものよりも我々を幸福すると信ずべき根拠はない、と彼は言う。
こうしたゼロサム活動は常に経済の一定割合を占めてきたが、多くの基本財やサービスが飽和状態に近付くにつれ、その重要性が増してきた、と彼は指摘する。米国の「金融および事業サービス」が雇用に占める割合は、1992年には13.2%だったが、今や18%になっているとの由。
さらにターナーは、GDPや生産性の計算における問題点を指摘する。例えば住宅価格が上昇して家賃が上がれば、住宅サービスの供給が増えていなくても、両指標は増加する。これは、家賃がGDPに含まれているためである。英国で家賃がGDPに占める割合は1985年の6%から12%に倍増したとの由。
また、離婚弁護士の増加や手取り上昇もGDPを増やす。これは、エンドユーザーである消費者が彼らに対価を支払うためである。一方、商業弁護士の増加や手取り上昇はGDPを増やさない。これは、企業の法的支出は中間費用としてカウントされるためである。中間的なゼロサム活動が増えれば生産性は低下し、それ以外のゼロサム活動が増えればGDPは増えるが厚生は向上しない、というわけだ。
ITによる厚生の向上(様々な手間の削減や、価値ある情報や娯楽の無料での提供)がそうした傾向を相殺するかもしれないが、一部の右派経済学者が言うようにそれで所得格差拡大の問題も無くなる、というわけではない、とターナーは言う。ITによって消費者余剰が増加したとしても、それで上昇した家賃や通勤費を賄えるわけでは無いためである。一方で、そうした無料サービスは、厚生を向上させたとしても、GDPには反映されない。
このようにして、GDP指標と厚生利得は最終的には完全に無関係になってしまうのではないか、とターナーは言う。2100年には、ロボットやAIによって自動化された財やサービスの提供はGDPの僅かな割合を占めるだけになり、自動化困難なサービスやゼロサム活動がGDPの大部分を占めるようになるのではないか、とターナーは予言する。その時、生産性の成長率はゼロ近くになるが、厚生の向上とも無関係になる。
実際にそうなるのはまだ先の話だが、その方向へのトレンドが最近の生産性の伸びの鈍化をもたらしているのではないか、とターナーは言う。コンピュータが生産性統計に表れていないのは、あまりにも強力であるためだ、と述べてターナーは論説を結んでいる*5。