道具にして規則に非ず:経済学入門で我々は間違った原理を教えているのか?

Eastern Economic Journalの最新号でDavid Colanderが表題の小論を書き(原題は「Tools, Not Rules: Are We Teaching the Wrong Principles of Economics in the Introductory Course?」)、マンキューの提唱する経済学の十大原理への修正を提案している(H/T マンキューブログ)。
以下はその修正案*1

  1. トレードオフ原理
    • フリーランチというものは無いが、時々サンドイッチを掠めることはできる*2
    • (標準版)人々はトレードオフに直面している:あるものを得るためには何かを諦めなくてはならない。意思決定においてはある目標と別の目標を引き換えにすることが要求される。
  2. 機会コスト原理
    • 機会コストは、明確および明確でないトレードオフに関する経済学者の費用便益の枠組みに焦点を当てるものであり、意思決定においては有用な発見的問題解決法として機能する*3
    • (標準版)あるものの費用はそれを得るために放棄したものの価値である:意思決定者は自らの行動の明示的および暗黙の費用をともに考慮しなくてはならない。
  3. 合理的な費用便益原理
    • 費用便益のレンズで問題を捉えることは、レンズが道具であって規則ではないことを弁えている限り、有用である。経済は複雑系であり、その多様な次元を捉えるためには複数のレンズが要求される。良き経済学者は常に自らのモデルに「他の条件が等しければ」という注釈を付ける。
    • (標準版)合理的な人々は限界原理に基づいて考える:合理的な意思決定者は、限界利益限界費用を超える場合、およびその場合のみ、行動を起こす。
  4. インセンティブ原理
    • 大抵の人々は、個人的及び社会的な目的を達成する際、啓発された自己利益を動機とする。そうした目標を達成するための費用ならびに便益が変化した時、人々の行動も変化する。
    • (標準版)人々は様々なインセンティブに反応する:費用もしくは便益が変化した時、人々の行動も変化する。
  5. 交易は善という原理
    • 交易は協業の一形態であり、協業は全ての人々をより豊かにできる。複雑な交易は複雑な制度的および社会的基盤を必要とする。
    • (標準版)交易は全ての人々をより豊かにできる:交易は各人が自分の最も得意とする活動に特化することを可能にする。他者と交易することにより、人々はより多様な財やサービスを購入することができる。
  6. 市場は善という原理
    • 市場は社会が行動を強調させる有用な手段を提供する。市場の効率的な使用は時間とともに発展する。政府の政策の一つの側面は、市場などのボトムアップの問題解決を促進する経済構造を創造することにある。
    • (標準版)通常は市場は経済活動を組織する良策である:市場経済で相互作用する家計と企業は、恰も「見えざる手」に導かれるかのように行動しており、それによって市場は資源を効率的に配分する。この反対は、政府内の中央計画者によって組織される経済活動である。
  7. 外部性原理
    • 政府と市場は複雑に絡み合っている。公共政策は、単に市場の齎す成果を改善するにとどまるものではなく、市場へのトップダウンの介入の必要性が減るような制度の発展に影響を与えるものでもある。
    • (標準版)政府は市場の齎す成果を改善できることもある:市場が資源の効率的な配分に失敗する時、政府は公共政策によってその結果を改善することができる。独占や公害に対する規制がその例。
  8. 「実」原理
    • 国の厚生は経済学が焦点を当てる物質的な快適さだけで決まるものではない。GDPが測る財・サービスや、生産性の尺度は、社会的厚生の一側面に過ぎない。GDPはそれ以外の多様な側面を捉えていない。
    • (標準版)一国の生活水準は財・サービスの生産能力に依存している:労働者が単位時間当たり多量の財・サービスを生産する国は、高い生活水準を享受している。同様に、国の生産性が高まれば、平均所得も高まる。
  9. 貨幣錯覚原理
    • 最終的には、経済の貨幣量ではなく、経済の実物財の量が、社会が消費できる量を制約する。売り手が価格を引き上げるインセンティブが存在し、需要者がより高い価格を払うのにやぶさかでなければ、物価は上昇する。
    • (標準版)政府が紙幣を印刷し過ぎると物価が上昇する:政府が国の貨幣を大量に創造すると、貨幣価値は低下する。その結果、物価は上昇し、財とサービスを買うのにより多くの貨幣が必要となる。
  10. マクロ経済原理
    • 総供給と総需要はお互いに絡み合っている。結果として生じる状態には多くの可能性がある。経済学者はマクロ経済に関する良い理論を持っていない。
    • (標準版)社会はインフレと失業率の短期的なトレードオフに直面している:インフレを下げると失業が一時的に上昇することが多い。このトレ−ドオフは、税や政府支出や金融政策の変更の短期的な影響を理解する上で極めて重要である。


Colanderはこの修正版を提案するに至った動機を以下のように説明している。

...the principles we teach are fine, as long as they are presented with the appropriate nuance, by which I mean that we emphasize that the principles are tools, not rules. Used appropriately, these principles can be highly useful. Used inappropriately, these principles can undermine student’s understanding of economics.
Many professors add the needed nuance in their lectures, and textbooks generally add it in their in-depth discussions. Unfortunately, students often have a hard time integrating the in-class presentation of nuance into their understanding of the principles. They focus on memorizing the principles because that’s what they believe that the exam will focus on. The problem is getting worse. More and more, the teaching of economics is being built into online learning systems structured around the principles found in the texts. The online learning systems are structured so that they highlight only the principles; they purposely blur out the discussion where the nuance generally exists so that students aren’t distracted by the discussion. That, in my view, is a problem. It means that unless the nuance is directly embedded in the highlighted principle, the nuance is lost.
...
Currently, the principles of economics are often presented in a way that does not embed the nuance in the principle so that when the students learn the principle, they also learn the nuance. It doesn’t have to be that way. In this section I list 10 standard principles of economics and then suggest a nuanced way to present them.
(拙訳)
・・・我々が教える経済学の原理は、適切なニュアンスと共に提示されるならば、結構なものである。ここでニュアンスという言葉で私が意味しているのは、原理は道具であって規則ではない、ということを我々が強調することである。適切に用いれば、これらの原理は非常に有用である。不適切に用いられると、これらの原理は学生の経済学理解を損なうものとなり得る。
多くの教授は必要とされるニュアンスを講義の際に付け加え、大抵の教科書は詳細な議論でそのニュアンスを付け加える。しかし学生は、残念ながら、講義で示されたニュアンスと自らの原理の理解とを結び付けるのに苦労することが多い。彼らは原理を暗記することに集中するが、それは試験が力点を置く箇所だと彼らが信じているためである。状況は悪化している。経済学の授業は、教科書内の原理を中心に構成されたオンライン学習システムにますます組み込まれるようになっている。オンライン学習システムは原理のみを強調し、ニュアンスが記述されていることが多い議論部分を意図的に消し去っているが、それは議論に学生が気を取られないようにするためである。このことは、私に言わせれば、問題である。これが意味するのは、強調される原理にニュアンスが直接に埋め込まれていなければ、ニュアンスが失われてしまう、ということである。
・・・
現在、経済学の原理はニュアンスが埋め込まれていない形で提示されることが多いため、学生が原理を学ぶ際は、ニュアンスは別に学ぶことになる。しかし、そうである必要は無い。本節で私は、経済学の10の標準的な原理を提示した上で、それをニュアンスを込めた形で提示する方法を提案する。


これに対しマンキューは、同じ号の中の「The Tradeoff between Nuance and Clarity(ニュアンスと明確性の間のトレードオフ)」と題した小論で以下のように反応している

Although David and I agree on the goals of the introductory course in economics, we seem to disagree about the pedagogical tactics used to reach those goals. By all means, students should leave the course with a nuanced understanding of the field. But before we can aspire to nuance, we must first achieve clarity. To keep students engaged and on the right track, we need to start simple and then add nuance as their understanding grows.
...The ten principles in my textbook, which David quotes, are introduced in the first chapter. They are aimed at the student who has never studied economics before. The goal is to give a brief and understandable introduction to the field, a general sense of where we are heading, and a foundation for the material to come. To add a lot of nuance at this early stage in the course would sacrifice too much clarity.
Subsequent chapters of my book add a lot of nuance. Otherwise, why would I need more than 800 pages to fully introduce the field?
(拙訳)
デビッドと私は経済学入門の目標については意見が一致しているが、その目標を達成するために用いる教育術で意見が分かれているようである。講義終了の際に学生が経済学分野をニュアンスも含めて理解していることは必須であるが、ニュアンスの前にまず明確さを達成する必要がある。学生に関心を持たせ、正しい道を歩ませるためには、最初は簡明にしておく必要がある。ニュアンスは理解が進むとともに付け加えていくことになる。
・・・デビッドが引用した私の教科書の10大原理は、第一章で導入されている。これは、経済学を未だ勉強したことの無い学生向けのものである。その狙いは、経済学を簡潔で理解可能な形で紹介し、経済学の方向性を掴んでもらい、その後に教えることの基盤を与えることにある。講義のこの最初の段階でニュアンスを数多く与えることは、明確さをあまりにも犠牲にし過ぎることになる。
私の教科書の後続の章では数多くのニュアンスを付け加えている。さもなくば、経済学の完全な入門のために800ページ以上を必要とするはずがないではないか?

*1:マンキューの提唱する「標準版」もColander論文に対照形式で掲載されているので、ここでは副項で併せて示した。標準版の見出しの訳はグレゴリー・マンキュー - Wikipediaに依る。

*2:cf. サマーズ見解

*3:cf. クイギンおよびJoshua Gansの見解。