経済成長の理論における数学もどき

15日エントリで触れた表題のローマー論文(原題は「Mathiness in the Theory of Economic Growth」)から、彼の言うmathiness(数学っぽさ/数学もどき)と本来の数学を対照させた箇所を引用してみる。

Solow’s (1956) mathematical theory of growth mapped the word “capital” onto a variable in his mathematical equations, and onto both data from national income accounts and objects like machines or structures that someone could observe directly. The tight connection between the word and the equations gave the word a precise meaning that facilitated equally tight connections between theoretical and empirical claims. Gary Becker’s (1962) mathematical theory of wages gave the words “human capital” the same precision and established the same two types of tight connection—between words and math and between theory and evidence. In this case as well, the relevant evidence ranged from aggregate data to formal microeconomic data to direct observation.
In contrast, McGrattan and Prescott (2010) give a label—location—to their proposed new input in production, but the mathiness that they present does not provide the microeconomic foundation needed to give the label meaning. The authors chose a word that had already been given a precise meaning by mathematical theories of product differentiation and economic geography, but their formal equations are completely different, so neither of those meanings carries over.
The mathiness in their paper also offers little guidance about the connections between its theoretical and empirical statements. The quantity of location has no unit of measurement. The term does not refer to anything a person could observe. In a striking (but instructive) use of slippage between theoretical and the empirical claims, the authors assert, with no explanation, that the national supply of location is proportional to the number of residents. This raises questions that the equations of the model do not address. If the dependency ratio and population increase, holding the number of working age adults and the supply of labor constant, what mechanism leads to an increase in output?
McGrattan and Prescott (2010) is one of several papers by traditionalists that use mathiness to campaign for price-taking models of growth. The natural inference is that their use of mathiness signals a shift from science to academic politics, presumably because they were losing the scientific debate. If so, the paralysis and polarization in the theory of growth is not sign of a problem with science. It is the expected outcome in politics.
(拙訳)
ソロー(1956)*1の成長の数学的理論は、「資本」という言葉を彼の数式の変数に結び付けたほか、国民所得勘定のデータならびに人が直接に観測できる機械や建築物などの物理的存在に結び付けた。言葉と方程式の間の緊密な結び付きは、言葉に正確な意味を与え、理論と実証に関する主張の間にも同様の緊密な結び付きをもたらした。ゲーリー・ベッカー(1962)*2の賃金の数学的理論は、「人的資本」という言葉に同様の正確性を与え、言葉と数学、理論と実証の間に同じく緊密な結び付きを確立した。この場合も、関係する実証的証拠は、マクロデータならびに正式なミクロデータ、および直接観察できるものに及んでいた。
対照的に、マクグラタンとプレスコット(2010)は、彼らが新たに提唱する生産の入力に場所という名前を与えたが、彼らの提示する数学もどきは、その名前に意味を与えるのに必要なミクロ的基礎付けを提供していない。著者たちは、製品差別化や経済地理学の数学的理論で既に正確な意味が与えられた言葉を用いたが、彼らの定式化はまったくの別物となっており、いずれの理論における意味も引き継がれてはいない。
彼らの論文の数学もどきは、理論と実証の記述の間の結び付きもほとんど提供していない。場所という量には尺度が無い。この用語は人が観察できるものを一切参照していない。理論と実証に関する主張の間の驚くべき(と同時に教訓となる)ずれを利用しながら、著者たちは、説明抜きで、一国の場所の供給は住民の数に比例する、と主張する。このことは、モデルの方程式では解決できない疑問を呼ぶ。労働年齢の成人人口と労働供給が一定のまま、依存人口比率と人口が上昇したならば、産出の増加はどのようなメカニズムによってもたらされるのか?
マクグラタンとプレスコット(2010)は、成長の価格受容モデルを喧伝するために数学もどきを使う伝統主義者の論文の一つである。彼らの数学もどきの使用は、おそらくは科学的論争で負けつつあるため、科学から学界政治へのシフトを示している、ということが自然に察せられる。もしそうならば、成長理論の分野における停滞と分極化は、科学における問題を示しているのではない。それは政治面から予期される結果である。


ローマーはまた、ソローとケンブリッジ資本論争を繰り広げたジョーン・ロビンソン(1956)*3も、学界政治のために数学もどきを用いた、と断罪している*4
そのほかにローマーが槍玉に挙げた論文については、ノアピニオン氏が、上記のマクグラタン=プレスコット(2010)も含め、WPのリンク先とローマー批判の一口メモを添えてまとめているので、以下にそれを引用してみる。

  1. Prescott and McGrattan (2010): Romer says that this paper includes a term that the authors label "location," but that doesn't correspond to any real measure of location.
  2. Boldrin and Levine (2008): Romer criticizes this paper for assuming that a monopolist would also be a price-taker, and for making various hand-wavey arguments.
  3. Lucas (2009): Romer criticizes this paper for making a hand-wavey argument to dismiss the idea that investment in embodied technology (books, blueprints, etc.) can be a source of sustained growth, when there are well-known models in which it can. Romer also points out a random math error in the paper, and uses this to argue that reviewers don't pay close attention to math.
  4. Lucas and Moll (2014): Romer criticizes this paper especially harshly. Lucas and Moll claim that their model, in which there is no creation of new knowledge, is "observationally equivalent" to models in which new knowledge arrives very slowly. Romer shows that the truth of this claim depends on which order you use when taking a double limit. He reveals that he told the authors about the problem, but that they ignored him and left it in the paper.
  5. Piketty and Zucman (2014): Romer points out the by now well-known "gross vs. net" problem in Piketty and Zucman's definition of savings.

(拙訳)

  1. Prescott and McGrattan (2010):論文では、著者たちが「場所」と名付けた用語が使われているが、 場所の実際の尺度には一切対応していない、とローマーは言う。
  2. Boldrin and Levine (2008):独占者が価格受容者にもなることを仮定しているほか、数々の雑駁な議論をしているということでローマーはこの論文を批判している。
  3. Lucas (2009):体化された技術(書籍、設計図、等)への投資が持続的な成長の源になる、という考え――それを支持するよく知られたモデルも複数存在する――を退けるために雑駁な議論をしている、とローマーはこの論文を批判している*5。ローマーはまた、論文の雑な数学の誤りも指摘しており、そのことを基に、査読者は数学にきちんと注意を払っていない、と論じている。
  4. Lucas and Moll (2014):ローマーはこの論文を特に厳しく批判している。ルーカス=モールは、新たな知識が創造されない彼らのモデルは、新たな知識が極めてゆっくりと到着するモデルと「観測上同等である」と主張する。ローマーは、その主張が正しいかどうかは、極限を二重に取る際にどの順番で取るかに依存する、ということを示している。彼は、著者たちにその問題について伝えたが、彼らはそれを無視して論文にそのまま残した、ということを明らかにしている。
  5. Piketty and Zucman (2014):ローマーは、ピケティ=ザックマンの貯蓄の定義における、今や良く知られている「グロスかネットか」の問題を指摘している。


ノアピニオン氏自身はローマーの見解に批判的で、言うほどベッカーの人的資本とマクグラタン=プレスコットの場所概念に差はあるのか、と疑問を呈している。数学もどきでアイディアを語るのは経済学の常法であり、定量的な変数の予測ツールとして数学を用いたソロー論文はむしろ例外なのでは、というのが氏の見方である。
このノアピニオン氏のエントリにデロングが反応し、ローマーが問題にしているのは不完全競争を認めるかどうかなのだ、と指摘している(cf. 10日エントリの末尾で触れた議論)。


一方、digitopolyのJoshua Gansは、数学もどきが経済学で幅を利かせる状況は確かに問題であり、本当にそうなっているかどうか検証する価値があるが、少なくともマクロ経済学以外では、学界政治がその原因になっているかどうかは疑問、という意見を述べている。Gansによれば、成長理論では確かに、完全競争で理論が成立するかどうかに話が集中することによって、そもそもの経済成長問題の深遠さを見誤らせている可能性がある、という。しかしそれ以外の分野では、むしろ、トップジャーナルへの掲載を目指す理論家の視野狭窄的な考え方――少しずつ細部を正確に明らかにしていく論文よりは、幅広い実証的含意を持つ大上段に振りかざした論文を書こうとする――が数学もどきが蔓延る原因となっているのではないか、とのことである。

そのほかサイモン・レンールイスも、主にミクロ的基礎付けという観点からローマーのエントリならびに論文を紹介している

*1:これ

*2:これ

*3:邦訳

*4:これについてはEconospeak界隈から異論が出そうだが。

*5:ローマーはこの点についてさらに追い討ちを掛けるようなエントリを上げている。