AIIBと英ソ通商協定

アジアインフラ投資銀行(AIIB)にイギリス、ドイツが抜け駆け的に参加し、米国が歯噛みをしている状況を見て、大学時代に世界史で習った一場面を思い出した。以下は、「世界の歴史 14 第一次大戦後の世界」からの該当のエピソードの引用。

異なった体制の下にあるとはいえ、地球の六分の一の面積と一億六千万の人口とを有するロシア市場の存在を無視することはできなかった。イギリスは、対ソ経済封鎖が解除される前後から絶えずソヴィエトと接触し、軍事捕虜の交換をはじめ、1921年3月には英ソ通商協定の調印をみた。この協定ではロシアの帝政時代の債務がなお将来の問題として残されてはいたが、首相ロイド=ジョージが下院で言明したように、ソヴィエト政府を事実上承認したものにひとしかった。
このイギリスの態度は、経済的不況になやむヨーロッパ諸国に一つの先例を具体的にしめす結果となった。・・・1922年1月、旧連合国はカンヌで会議をひらき、ロイド=ジョージの提案にもとづいて戦後の経済的危機を克服するために、ドイツ。オーストリアハンガリーブルガリアなどの戦敗国のほか、ソヴィエトをも加えた国際会議を開くことを決定した。アメリカは参加を拒否した。
その会議は4月10日からジェノヴァで開かれた・・・

このジェノヴァではまた、敗戦国ドイツが、ゆきづまった賠償問題の打開をはかって旧連合国と交渉しつつあった。この日、ドイツ代表のラーテナウとソヴィエト代表のチチェーリンとは、しばらく姿を消していた。そして翌16日にはドイツ・ソヴィエト間にラパロ条約が成立して旧連合国をおどろかせた。ラーテナウとチチェーリンが4月15日、ジェノヴァ近郊のラパロにひそかに会して、これを成立させたのであった。
・・・いわば連合国は、敗戦国ドイツと社会主義国ロシアとに完全にだしぬかれたことになった。ドイツでは、戦争前ロシアが重要な市場であった関係から、通商再開を望む声がつよく、とくに英ソ通商条約によってイギリスの進出が予想されるようになると、対ソ接近の機運はいちじるしく助長されたのであった。


ちなみにこの時のフランスは、ロシアに対して最も多額の債権を有していたため、ジェノヴァ会議ではソヴィエト政府がそれらの債務を承認することを極めて強硬に要求したとの由。