バック・イン・ザ・U.S.S.R.

2009年末に死去したエゴール・ガイダルが、2006年11月の自著(下記参照)宣伝のAEI講演時に、ソ連崩壊の原因を穀物原油という2つのキーワードで説明しているMostly Economics経由の4年半前のタイラー・コーエンのMRエントリ経由)。

Collapse of an Empire: Lessons for Modern Russia

Collapse of an Empire: Lessons for Modern Russia

  • 作者: Yegor Gaidar
  • 出版社/メーカー: Brookings Institution Press
  • 発売日: 2007/11/02
  • メディア: ハードカバー
  • 購入: 1人 クリック: 13回
  • この商品を含むブログを見る


その講演内容は概ね以下の通り。

  • この本の執筆動機は、以下の2つ:
    • ブレジネフ時代の水準に近づいた原油価格の高騰。
    • 改革を実施しなければソ連超大国の座を維持していたという神話の流布。ロシア人の8割以上がそれを信じているというが、これはワイマール・ドイツ時代の匕首伝説と同様危険なものである。
  • この問題の解決策として、以下の2つの方策が採られた:
    • 黒土地帯以外での農業の生産状況の改善
    • 社会主義計画経済システムによる大規模化と集産化のさらなる推進
  • 耕作地の拡大は一時的な成功を収め、1950年代半ばから1960年代初めに掛けて穀物生産量は大きく伸びた。しかし、拡大可能な耕作地の枯渇と大都市の人口増加により、この方法も行き詰った。1963年、フルシチョフは衛星国の指導者に、お前に食わせるタンメンはねぇ! もはや穀物は供給できない、と通告した。この年、ソ連は金準備の1/3をはたいて1200万トンの穀物を購入した。
  • 1960年代に穀物生産はプラトー状態に達し、その後1980年代末まで年間6500万トンでほぼ一定だった。一方で都市人口は8000万人増加した。第一次世界大戦前は米加を合わせたよりも大きい世界最大の穀物輸出国だったロシアは、日中合わせたよりも大きい世界最大の輸入国となった。しかし、日本と違い、ソ連には輸出競争力を持つ加工品は無かった。従って、輸入代金の支払いには原油やガスなど天然資源の輸出に頼るしかなかった。
  • ソ連の指導者にとって幸運なことに、穀物の輸入問題が深刻化したまさにその時に、西シベリアのチュメニ地方で大油田が発見された。1970年時点で既にそれは国際基準でも大油田と見做されていたが、ソ連はその後12年間にそこでの産油量を12倍に増やした。
  • 1975年には、現行の産油水準を維持するために多額の投資が必要とされる状況になっていたが、幸運にも1970年代半ば以降原油価格が上昇した。しかしそれは一方で、資源の呪い*2も招いた。米国では1974年に原油価格が4倍になったことは過去半世紀で最大の外的ショックであり、交易条件が15%低下したが、ソ連ではGDPに数百%単位の影響を及ぼした。
  • 原油価格の維持のため、当時のKGB長官ユーリー・アンドロポフはアラブのテロリストを支援した。しかし、ソ連の指導部は、原油による収入でアフガニスタン戦争を始めるという大ポカをやらかした。1974年に米国への石油禁輸措置を打ち出したサウジアラビアは、1979年にはアフガニスタン侵攻はソ連の中東油田への野心の第一歩だと警戒し、米国の保護を望むようになった。
  • サウジアラビアのヤマニ石油相による1985年9月13日の石油政策の方針変更が、ソ連崩壊への一里塚となった。その後6ヶ月でサウジアラビアは石油生産量を4倍に増やし、原油価格は実質ベースでおよそ1/4になった。その結果、ソ連は約200億ドルの年間収入を失い、存亡の危機に立たされた。
  • その時にソ連に残されたのは以下の3つの選択肢(ないしその組み合わせ)だった:
    1. 東欧ブロックを解体し、石油とガスのバーター取引を停止して、対価をハードカレンシーで受領するようにする
      • これは第二次世界大戦で勝ち得た成果を完全に放棄することを意味し、1985年時点でこれを提案した書記長はその座を失う危険があった
    2. 200億ドル分食糧輸入を削減する
    3. 軍産複合体を大幅に削減する
      • 多くの都市が軍産複合体に頼っている状況に鑑みて、この政策も検討されなかった
  • 上記3つのいずれの選択肢の採用にも踏み切れないまま、ソ連は外国からの借金を重ねた。しかし、1989年には経済は完全に停滞し、300行を予定していた外銀のコンソーシアムには5行しか集まらず、必要額の1/20の融資しか受けられなかった。商業銀行からのこれ以上の融資は無理という最後通告をドイツ銀行から受け取ったソ連は、外国政府からの直接の借款に頼るほかは無かった。
  • 1985年時点では政治的譲歩と引き換えに資金を得るというのは論外だったが、1989年にはそれが現実化した。今では、当時のシェワルナゼ外相がソ連の国家利益を裏切ったのだ、という声が聞かれるが、実際には多くの国家機関が彼にそうするよう促したのだ。その一方で食糧危機は深刻化し、1991年にはモスクワでの飢饉の恐れも囁かれていた。
  • こうした状況に照らすと、ゴルバチョフの当時の政策もより良く理解できる*3。もしソ連軍がワルシャワの連帯の運動を粉砕していたら、生存に必要不可欠な1000億ドルの借款を受けられなかっただろう。マルタ会談でゴルバチョフブッシュ大統領に伝えるまでも無く、東欧圏の維持のための武力の行使はもはや不可能になっていた。会談の6週間後、東欧の共産国はひとつも残っていなかった。
  • それでも西側はソ連国内の独立の動きを直接支持することには慎重だった。リトアニア当局がモスクワの米国大使館に独立支持を打診したとき、答えは否定的だった。しかし、1991年1月にソ連がバルト諸国の支配を取り戻そうと武力を行使した時、米国を含む西側は1000億ドルの借款の取り消しを警告した。
  • かくしてゴルバチョフは、ソ連の解体を認めるか、生存に必要な借款を諦めるか、という二律背反の状況に追い込まれた。彼を弱腰だと考えた保守派はクーデターを起こしたが、彼らにも解決策は無かった。こうして1991年8月22日、ソ連という物語は終わりを告げた。
  • 現在への教訓:
    • 今日のロシアも原油に依存した経済となっているが、原油価格の動向は誰にも分からない。その高価格がいつまでも続くことを前提とした政策を採ることに関しては、ソ連の崩壊は重要な教訓となろう。現政府は石油収入の多くを安定化基金に組み入れているが、それを別の目的に振り向けることをテレビや新聞で主張する輩がいる。
    • 全体主義体制は、見掛けは強固でも、危機には脆弱である。それは、指導者が危機に際して国民の支持を得ることが難しいからである。ロシアはこれまで変動を十分に経験してきたので、もはやそれは必要ない。民主主義は安定した発展のために必要なのであり、イデオロギー的なものないし外国から押し付けられたものではない、ということを指導層は認識すべき。それが今後数十年間のロシアの発展にとって極めて重要なこと。

*1:ここでガイダルは、この当時のソ連の農業政策と1970年代後半の中国の農業政策の共通性について言及し、1930年のソ連と1980年の中国の一人当たりGDP(1990年基準のGeary-Khamis dollarで1400ドル強)と都市人口比率(〜20%)がほぼ同じだったという興味深いデータを示している。

*2:ここでガイダルはサラマンカ学派によるスペインの分析を引き合いに出して「“スペインの”呪い」と呼んでいるが、日本ではオランダ病の方が通りが良いかもしれない。

*3:これはここで紹介したサックスのゴルバチョフ礼賛に比べてシビアな見方と言える。