格差を巡るソロー対マンキューの論争

マンキューの上位1%擁護論文を巡り、ソローとマンキューが、昨年夏に同論文が掲載されたJournal of Economic Perspectives(JEP)誌の最新号の投稿欄で論争している(H/T マンキューブログ)。
以下はソローが挙げた6つの論点と、それに対するマンキューの反応の概略(箇条書きの主項がソローの論点、副項がマンキューの反論)。

  1. 論文は冒頭でスティーブ・ジョブスを持ち出し、世界に大いなる消費者余剰をもたらした起業家が上位1%層の大部分であるかのような書き方をしている。しかし、同層の多くは金融関係者であり、しかもその所得の多くは取引による利益という情報の非対称性に起因するものであって、消費者余剰を殆どもたらしていない。S&P500採用銘柄でブローカー・ディーラー企業のCEOの報酬の中位値は、1970-1995年は他業界と同程度だったのに、1996-2006年には他業界の7〜10倍に跳ね上がった。
    • 自分の1%論文が載ったJEPの同じ号の論文で、Kaplan and Rauh (2013)は、規模の経済と技能偏向的な技術進歩の重要性に基づくスーパースター的な要因が上位1%の多くを占める、と結論付けている。
    • 金融について自分が言葉を濁しているのはその通り。金融の社会的価値は測定が難しく、証拠が結論を導き出さないならば、正直にそれを認めるべき。

  2. 極端な格差のもたらす最大の危険をマンキューはせいぜいおざなりにしか触れていない。その危険とは即ち、富裕層が政治的影響力のみならず権力を金で手に入れることである。2010年のドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法がその好例。マンキューがこの点に部分的に言及したのはレントシーキングと格差の関係という文脈においてだが、そこで彼は、極端な格差を攻撃することではなくレントシーキングを抑えることが対処として適切である、と述べた。その伝で行けば、格差が政治を腐敗させるならば、格差ではなく腐敗を追及すべき、と彼は言うだろう。しかし、腐敗を絶つのを難しくするのが富による権力に他ならないことに鑑みると、それはあまりにもナイーブな見解。
    • 富裕層の政治的影響力について自分はソローほど心配していない。というのは:
      • 富裕層には左右両派の支持者がいる(右=コーク兄弟、左=ジョージ・ソロス)。
      • 格差拡大にも関わらず、2008年と2012年に米国は、富裕層への課税拡大を訴える左寄りの大統領を選出した。
    • そうした政治的懸念が欠落しているのは別に自分の論文だけではない。最適な所得再分配を扱った論文は概ね功利主義の原理に基づいており、所得の再分配と選挙過程についての推測された関係に基づいているわけではない。

  3. マンキューのレントの概念は狭すぎる。彼は主に独占的レントに言及しているが、経済的レントはもっと幅広い。彼は身長と所得の高い相関について触れているが、NBAを除けば身長が真の生産性と相関があるとは考えにくい。身長は対人関係の優位性に関係していると考えるべきで、それならば身長への見返りはレントである。
    • 実際のところ、自分はレント(生産要素に支払われる所得の機会費用超過分)に対してレントシーキング(政治的環境を操作してレントを得ようとする行為)ほど懸念を抱いていない。個人が非弾力的に労働を供給するならば、彼の収入はすべてレントとなるが、それは彼が社会的に非生産的なレントシーキングに従事していることを意味するわけではなく、限界生産物の価値以上の収入を得ていることを意味するわけでもない。
    • 高身長の人の高収入という付随的な話について言えば、様々な仮説があり、身長と知的能力の相関を報告したものもある。

  4. 米国の世代間の所得階層の移動性がかつてより低下し、幾つかの他の先進国よりも低く、米国のセルフイメージの水準に達していない、という実証結果が積み重なっている。これは遺伝に起因しているとは考えにくい。
    • 論文に書いたように、極端な貧困家庭に生まれた人は困難に直面すると思うが、それ以外の経済はソローが思うより実力主義的ではないか。Kaplan and Rauhの研究に加えて、二人のマーケティングの教授が書いた「となりの億万長者―成功を生む7つの法則」でも、百万長者の多くが金持ちの家に生まれた人ではなく、勤勉で質素な生活を送った人だという研究結果を報告している。
    • 格差拡大と世代間の所得階層の移動性の低下の関係は驚くべきことではなく、才能の遺伝を絡めた簡単なモデルで説明がつく。

  5. ランダムに富裕層から貧困層に所得移転をすることが社会的状況を改善すると考えるのに、別に功利主義者である必要はない。マンキューがこうした直観を否定しようとして挙げた例は、的を大きく外している。富裕国が貧困国を援助する方が安上がりという点については、人々が家族以外よりも家族、外国よりも自国に連帯感を覚えるということに過ぎない。腎臓の限界価値を均等化しないことは、腎臓を他の人より必要とする人がいないことを示しているわけではなく、殆どの人が腎臓は銀行口座よりも代替可能性が低いと考えていることを示しているに過ぎない*1。税制の累進性について言えば、限界税率は所得が高くなるほど僅かに低下している。
    • ソローのいう社会的状況の意味が不明確。
    • 富裕国から貧困国への援助、腎臓の再配分についてのソローの議論は、自分の議論への反論ではなくむしろ言い換えに過ぎない。即ち、我々の道徳的直観は功利主義とは程遠い、ということ。
    • 税制の累進性は平均税率によって測るべきであり、それは所得とともに大きく上昇する。ソローの挙げた限界税率はインセンティブ効果の測定に関わる話であり、累進性に関わるものではない。

  6. 相応の報酬を受け取ることに反対する者はいないが、どれだけが相応かを決めるという問題はある。親の資産や人的関係やDNAに基づく部分は相応ではなく偶然によると考えるべき。努力と偶然を数値的に切り分けるのは非現実的だが、かと言って混同すべきでもない。
    • 相応の報酬を受け取ることに反対する者はいない、とソローは言うが、実際には再配分に関する経済学的研究の大部分が、意識していないにせよ、まさにそうした立場を取っている。標準的なモデルでは、功利主義的な目的関数のようなものを仮定し、逓減的な限界効用と再分配によるインセンティブへの逆効果を比較衡量して最適税制を決めている。人々にとってどれだけが相応かということは、このモデルでの最適政策の策定に際し何ら考慮されていない。
    • 相応分の判別が困難だというソローの意見には同意。その点について最終結論を出した、というつもりはない。経済学者が政策を考える際に、相応ということについてももう少し念頭に置くようになってくれれば、論文を書いた甲斐があったというもの。

*1:この点についてはかつてクルーグマン指摘している