このRoweの問題意識の出発点は、(ここで紹介した)インフレ目標が需要不足による不況を防げなかった、という認識にある。そうしたインフレ目標の「失敗」の原因としてRoweが候補に挙げたのが、インフレ目標によってフィリップス曲線が平坦化してしまった、という可能性である。その平坦化のため、インフレ目標を達成しても生産や雇用を潜在水準に近づけることができなくなった、いわばインフレ目標は自己破壊機能を内蔵していた――インフレ目標の達成により、金融を引き締めるべきか緩和すべきかの指標としてのインフレの有用性も失われてしまった――とRoweは言う。
ただ、この仮説を検証するには問題がある、とRoweは指摘する。それは、本当にフィリップス曲線が平坦化したのか、それとも見掛け上平坦化したに過ぎないのかを計量経済的に区別するのが難しい、という点である。
例えば、標準的なフィリップス曲線
Pt = E[Pt] + bYt + Xt
を考えてみる。ここでPtはインフレ率、Ytは生産、E[Pt]は期待インフレ率、Xtは何らかの外生変数である(お望みならば失業率Utを用いてYtを-Utに、係数を-bに置き換えて考えても良い、とRoweは言う)。構造パラメータbは、期待インフレ率一定とした場合の短期フィリップス曲線の傾きである。また、インフレ率が期待インフレ率と等しくなる長期フィリップス曲線では、傾きは無限大となる。
このモデルでは、フィリップス曲線の傾きが所与のため、インフレ目標が本当にフィリップス曲線を平坦化することはできない。ただ、見掛け上平坦化することはできる、とRoweは言う。彼によれば、その方法は2つある:
- インフレ目標が期待インフレ率の一定化を目指した場合
- インフレ目標が実際のインフレ率の一定化を目指した場合
- インフレ目標が期待インフレ率を一定にした場合、PtとYtの観測される相関は、外生変数XtとYtの相関に依存する。もしXtとYtが無相関ならば、PtとYtには正の相関が観測され、その傾きは構造パラメータbそのものとなる。その場合、短期のフィリップス曲線(+ランダムノイズ)が観測されることになる。
- しかし、インフレ目標は、XtとYtが完全な逆相関関係になることを目指すものである。XtとYtが負の相関関係にあるならば、観測される傾きはbよりも小さくなる。中央銀行がインフレ率を完全に目標に乗せれば(その場合、Yt=-(1/b)Xtとなる)、Ytが変動してもPtが変化しないことになるので、フィリップス曲線は見掛け上完全に平坦になる。
このエントリのコメント欄にはロバート・ワルドマンが姿を現し、もっと簡単な説明がある、としている。それは、そもそもフィリップス曲線が直線ではなく下に凸な曲線であることを考えると、インフレ率の低い領域では傾きが小さくなる、というものである。それとRoweの挙げたケースを区別するためには、高いインフレ目標を掲げた事例か、インフレ目標を達成せずに低インフレを続けた事例を見る必要がある。前者は例がないが、後者は日本が相当する。そして、日本のフィリップス曲線は平坦である。従って、平坦なフィリップス曲線は別にインフレ目標の成功によって起きた新現象ではない、とワルドマンは指摘する。それに対しRoweは、良い指摘だが、そのこともまた検証が難しい、と応じている。