貨幣においてセーの法則は成立するか?

という議論がNick RoweとDavid Glasnerの間で断続的に続けられている。Roweは成立すると言い、Glasnerは成立しないと言う。


13日に紹介した直近のブログエントリで、Glasnerは両者の言い分を次のようにまとめている。

...Nick asserted that any increase in the quantity of bank money is a hot potato. Thus, if banks create more money than the public want to hold, the disequilibrium cannot be eliminated by a withdrawal of the excess money, rather the money must be passed from hand to hand, generating additional money income until the resulting increase in the demand to hold money eliminates the disequilibrium between the demand for money and the amount in existence. I argued that Nick had this all wrong, because banks can destroy, as well as create, money. Citing James Tobin’s classic article “Commercial Banks as Creators of Money,” I argued that responding to the interest-rate spreads between various lending and deposit rates, profit-maximizing banks have economic incentives to create only as much money as the public is willing to hold, no more and no less. Any disequilibrium between the amount of money in existence and the amount the public wants to hold can be eliminated either by a change (positive or negative) in the quantity of money or by a change in the deposit rates necessary to induce the pubic to hold the amount of money in existence.
(拙訳)
Nickは銀行貨幣の増加はすべてホットポテトだと主張した。従って、もし一般が保有したいと思うより多くの貨幣を銀行が創造したならば、その不均衡は余剰貨幣の撤収によって解消されることはできず、余剰貨幣は人の手から手に渡らざるを得なくなり、それにより追加的な貨幣収入をもたらし、結果として貨幣を保有したいという需要が増加し、貨幣需要と実際の貨幣量の不均衡が解消されるまでそれが続く。私はNickのこの考えは完全に誤りだと主張した。というのは、銀行は貨幣の創造と同様に破壊も行うことができるからだ。ジェームズ・トービンの古典的論文「貨幣創造者としての商業銀行」を引用しながら、利益を最大化する銀行は、各種の貸出金利と預金金利との利鞘に反応し、一般が保有したいと思うのとちょうど同じだけの貨幣を創造する経済的インセンティブが存在するのだ、と論じた。実際に存在する貨幣量と一般が保有したいと思う貨幣量の間の不均衡はすべて、(正または負の)貨幣量変化、もしくは、一般の保有欲を実際の貨幣量と一致させるのに必要なだけの預金金利の変化によって解消されるのだ。


Rowe自身は、先月末のエントリで、端的に「Supply of money, eventually, creates its own demand(貨幣供給は最終的に自らの需要を創り出す)」と述べている。


なお、両者の議論のきっかけはGlasnerの昨年9月のエントリだが、それへの反論エントリRoweは自分の主張する不均衡解消過程を以下のように描写している。

Start in equilibrium, where the initial stock of money in public hands is exactly equal to the desired stock. And then the producers of money want to increase that stock, by $100. The producers of money do not need to increase the desired stock of money in order to increase the actual stock. Instead, they simply go out and buy something for $100. Suppose they buy a bicycle. The seller of the bicycle prefers the $100 to the bicycle, clearly. But that does not mean he wants to hold an extra $100 in his wallet. By assumption he doesn't, since we started at equilibrium. He wants to spend that $100 on something else. The supplier of money doesn't offer a price that makes him prefer holding the money to holding the bicycle. He offers a price that's sufficient to buy the skateboard he prefers to hold instead of the bicycle.

There is now an excess supply of money. The actual stock of money exceeds the desired stock. And that excess supply of money will hot potato around the economy, bidding up prices of goods and assets, and increasing quantities of goods bought and sold, until prices and quantities eventually rise enough so that the extra $100 is now willingly held.
(拙訳)
一般が当初保有している貨幣ストックが需要されるストックにちょうど等しい均衡状態を出発点として考えよう。貨幣の創造者が100ドルだけそのストックを増加させたいものとしよう。貨幣の創造者は、実際のストックを増加させるために、需要されるストックを増加させる必要は無い。その代わり、彼らは単に100ドル分の購入を行えばよい。彼らが自転車を買ったものとしよう。自転車の販売者は明らかに自転車より100ドルを選好する。しかしそのことは、彼が追加的な100ドルを財布にしまったままにしておきたいと思うことを意味しない。我々は均衡から出発したので、仮定により彼はそれを望まない。彼はその100ドルで何か別のものを手に入れたいと思う。貨幣供給者は、彼に自転車の保有より貨幣の保有を選好させるほどの値は付けなかった。貨幣供給者が付けた値は、彼が保有を自転車より選好するスケートボードを購入するのに十分なものだった。
今や貨幣供給の超過が生じているわけだ。実際の貨幣ストックは需要されるストックを超過している。そして、その貨幣の超過供給はホットポテトのように経済をたらい回しされ、商品や資産の価格を上昇させ、売買される商品の量を増加させる。そして、最終的に余分な100ドルが人々に喜んで保有されるようになるまで、その価格や取引量の上昇は続く。


その上で、この解釈における貨幣供給はヘリコプターマネーに他ならず、自転車は実際には公開市場操作での債券になる、とRoweは説明している。

In an important sense, all money is like helicopter money. The suppliers decide how big a stock will be held, regardless of the desire to hold it. People will pick it up whether they want to hold it or not. If they don't want to hold it they will spend it, to try to get rid of it in exchange for something they do want to hold. And it hot potatos around the economy until prices rise enough or incomes rise enough that they do want to hold it.

An open market purchase of bonds is still helicopter money. It's a helicopter increase in the stock of money, plus a vacuum cleaner reduction in the stock of bonds.
(拙訳)
重要なのは、すべての貨幣はヘリコプターマネーのようなもの、ということだ。供給者は、需要に関係なく、保有ストックの量を決定する。人々は、保有したいか否かに関わらずそれを拾い上げる。もし保有したくなければ、彼らはそれを支出し、保有したいと思うものとの交換に手放そうとする。そしてそれはホットポテトのように経済を動き回り、その回遊は、人々がそれを保有したいと思うほど物価もしくは収入が上昇するまで続く。
債券の公開市場での購入はやはりヘリコプターマネーである。それは貨幣ストックを増加させるヘリコプターに、債券ストックを減少させる掃除機を組み合わせたものである。


またRoweは、交換の媒介としての貨幣への需要こそが問題だ、という彼のかねてからの持論にこの主張を結び付けている。

I know I'm way out of the "mainstream" in arguing against the Law of Reflux. The mainstream has not understood that money is not like other assets. We *always* accept the medium of exchange when we sell other goods. It wouldn't be the medium of exchange if we didn't.
(拙訳)
還流の法則に抗することで自分が「主流派」から外れたことは承知している。主流派は貨幣が他の資産と違うということを理解していないのだ。我々は他の商品を売る際、交換の媒介を常に受領する。もしそうしなければ、それはそもそも交換の媒介ではない。


ここで持ち出されている「還流の法則」は、例えばここ原ページ)で説明されているような古い理論であるが、それは今や現代的な意味を持つようになった、とRoweは言う。

This very old debate over the Law of Reflux is what is at the root of the very modern debate about whether Quantitative Easing can work.
(拙訳)
この還流の法則を巡る非常に古い議論は、量的緩和が機能するかどうかという非常に現代的な議論の根幹に位置している。


これについてGlasnerは、9月の自エントリのコメント欄で、還流の法則の祖であるフラートンやトービンのほか、フィッシャー・ブラックも自分の側にいる、と指摘している。具体的には、「金融工学者フィッシャー・ブラック」から、フィッシャー・ブラックが還流の法則を自力で再発見したが、それがフリードマンの逆鱗に触れた、というエピソードを紹介している*1


さらに、同エントリの別のコメントでGlasnerは、自分とRoweの主張の違いの一つを以下のように指摘している。

You seem to want to treat all money as a single homogeneous entity whether it is issued by the government (central bank) or by commercial banks and therefore argue that there is no separate market for money. I on the other hand say that there is no separate market (in your sense) for money issued by the central bank, but there is a market for money created by commercial banks (which they make convertible into government money).
(拙訳)
貴兄は、政府(中央銀行)が発行したものであるか商業銀行が発行したものであるかに関わらず、貨幣をすべて唯一かつ均一な単体として扱おうとしており、従って、貨幣には分離した市場は無い、と論じているように思われる。それに対し私は、中央銀行の発行する貨幣には(貴兄のいわゆる)分離した市場は無いが、それとは別に、商業銀行の創造した貨幣(それは政府貨幣に転換できるようになっている)の市場が存在する、と論じている。

私見では、この指摘は、Roweの主張を量的緩和政策と結び付ける際の弱点を突いているように思われる。というのは、単に中央銀行が銀行の準備預金を増やすだけでは超過準備のブタ積みが増えるだけで商業銀行の貸し出しが増えない、という現象は、Roweの単一市場論ではうまく説明できないが、商業銀行が創造する貨幣の市場は別に存在するというGlasnerの理論では説明可能だからだ。もしRoweのホットポテト理論が政府貨幣にしか適用できないとすれば、量的緩和は、公開市場操作を通さずに、中銀が直接民間に資金を供給する形を取らざるを得ないことになる*2


ちなみに9月の両者のエントリにはサムナーが姿を見せ、二人の意見がどこで食い違っているのか良く分からん、とコメントしている。また、Bill Woolseyは最初からホットポテト仮説を支持しており*3、今回のGlasnerのエントリにも、還流原理による不均衡解消過程の問題点を指摘する長文のコメントを寄せている。

*1:手元の邦訳本を見ると、例えば次のような衝突の記述があった:
「だがフィッシャー、貨幣量が価格を決定するという証拠は山ほどあるんだぞ」とフリードマンはしまいに語気を荒らげたそうだ。ブラックは具体例を挙げるように要求した。そこでフリードマンは、通貨供給量が名目所得や物価水準に連動して変化するという事実は、貨幣量の増加が物価を押し上げることを意味すると主張した。しかしその同じ事実は、物価の上昇が通貨供給量の増大を招くとも解釈できる。ブラックはこの方が合理的だと主張した。実証データでは、結局どちらが正しいとも決められなかった。

*2:なお、9月エントリの本文の最後でGlasnerは、自分は(トービンと異なり)価格を通じた中央銀行の貨幣コントロール能力を信じているので、Roweとのこの意見の相違は大した話ではない、と書いているが、そのコメントは、価格を通じたコントロールにゼロ金利下限という大きな制約が課せられた現在の状況を些か軽視し過ぎているように思われる。

*3:そもそもホットポテトという用語が議論に登場したのは、Rowe槍玉に挙げる前のGlasnerの8月エントリのコメント欄でのGlasnerとWoolseyのやり取りにおいて、トービンの言うように預金通貨はホットポテトではない、とGlasnerが論じたのに対し、いやホットポテトだ、とWoolseyが反論したことに端を発している。また、9月エントリでGlasnerは、「貨幣経済では、n-1個の非貨幣の財それぞれについて市場がある。各市場では、ある非貨幣財と貨幣という、2つの財が取引される。」という(ここで紹介した)Roweの議論を、これぞホットポテト理論に正式な表現を与えたもの、と評している。ちなみにトービン論文では、「For it is the beginning of wisdom in monetary economics to observe that money is like the “hot potato” of a children's game: one individual may pass it to another, but the group as a whole cannot get rid of it.」と記述されている(ホットポテトゲームのWikipediaの説明はこちら)。