金融政策におけるパスカルの賭け

以前、小生は、2000年代前半のFRBの低金利を批判する人たちについて、以下のようなことを書いたことがあった。

また、2000年代前半の低金利が住宅バブルの原因として批判されているが、これはテイラーだけでなく、ベックワースがかねてより唱えているほか、ここで紹介したように、ECBの研究者による実証報告もなされている。ただ、これがミスであるとしても、そうしたミスがこれほどの事態を招くというのは、金融政策が実はかなりシビアな状況に置かれていることの証左でもあるように思われる。再び車の運転に喩えるならば、広い公道をのんびりとドライブしているわけではなく、F1のモナコグランプリ並みのシビアな状況に置かれているということである。ちょっとしたブレーキの遅れ、ちょっとしたハンドル操作の誤りが忽ち大事故につながってしまう、というわけだ。このため、90年代にはセナ足並みの精妙な金利操作でマエストロと称えられたグリーンスパンも、最後に大クラッシュを起こしてしまった。
フェイルセーフの観点から言えば、そうしたミスがあっても金融システムの崩壊を招かないような仕組みが欲しいところではあるが、やはり残念ながらそのような仕組みは未だ存在していない。そうした中でもとにかくルールに従っていれば無問題、というテイラーの提言は、かつてのマネタリストのk%ルールと同じく、些か金融経済システムの安定性を過大評価しているのではないか、という気もする。

テイラー「FRBの目標は一つで良い」 - himaginaryの日記

そもそもそれほど厳密な名目成長率の目標達成をFRBに要求することには土台無理があり、その点でやはりベックワースの議論は欠点を抱えているのではないか、という気が個人的にはする。

過度の金融緩和防止は名目成長率安定化と両立可能か? - himaginaryの日記


この問題について、ノアピニオン氏も取り上げ、以下のような考察を行った。

...economists who advocate models in which A) small monetary policy mistakes have severe negative consequences, and B) commitment is crucial are, ironically, doomed to failure by the extreme nature of their own arguments. The central bank operates under a great deal of model uncertainty, and is highly risk-averse. Unless it is extremely confident of one single model of the macroeconomy, the Fed will choose discretion (or a model like Woodford's, in which deviating from the rule does not come at a huge cost) rather than the kind of rigid commitment advocated by economists like Taylor. Which is to say, even if the Fed picks a rule, it will reserve the right to modify or drop that rule if conditions seem to warrant, just like a person reserves the right to change their religion. And since people know that the Fed reserves that right, they will never believe that the Fed will ever fully commit to any rule. Which means that no rule that requires absolute commitment can work.
(拙訳)
A)金融政策のちょっとした間違いが深刻な結果を招く、B)ルールを守ることが極めて重要、というモデルを提唱する経済学者は、皮肉にも、その主張の極端さ故に失敗を運命付けられている。中央銀行は大いなるモデルの不確実性の下で業務を行っており、非常にリスク回避的である。あるたった一つのマクロ経済モデルに全幅の信頼を寄せているのでもない限り、FRBは、テイラーのような経済学者が提唱する厳格な遵守を要求するモデルよりは、むしろ裁量政策(もしくはウッドフォードのモデルのように、ルールからの逸脱が途轍もないコストとして跳ね返ることの無いモデル)を選ぶだろう。つまり、仮にFRBが政策ルールを採択したとしても、状況次第ではそのルールを改変もしくは破棄する権利を留保するだろう。それはちょうど、個人が改宗の権利を留保するのと同じことだ*1。そして、人々はFRBがそうした権利を留保していることを知っているため、FRBが何らかのルールを完全に遵守するとは決して信じないだろう。つまり、絶対的な服従を要求するような政策ルールは決して機能しない、というわけだ。


これに対し、Andy Harlessが以下のようにコメントした。

I think ... you make a reasonably fair characterization of Taylor's position. I think it would also be a reasonably fair characterization of Beckworth's position, since he makes the same "The Fed was too easy in 2003-2005 because it didn't follow my rule" argument as Taylor does. Since Beckworth's rule differs from Taylor's, you could make your same argument using Taylor vs. Beckworth rather than Taylor vs. Sumner.

But it still isn't an unconditional argument for discretion over rules. It's just an argument that people who are very picky about the exact rule are undercutting their own argument for having rules in the first place. I do think that, when Taylor and Beckworth criticize the 2003-2005 Fed, they are tending to weaken, not strengthen, their case for rule-based monetary policy. But since I don't find their criticisms at all cogent, I don't think they really weaken the case for rules over discretion. They just mean that a few particular rule advocates haven't really thought things through.
(拙訳)
貴君はテイラーの立場を比較的うまく描写したように思う。また、それはベックワースの立場の比較的上手な描写にもなっている。というのは、彼もテイラーと同様に、「FRBは僕の政策ルールに従わなかったために2003-2005年に緩和し過ぎた」という主張を展開しているからだ。ベックワースのルールはテイラーのルールとは違うため、貴君のエントリでのテイラー対サムナーの議論をテイラー対ベックワースに置き換えれば成立する*2
しかしそれは、裁量はルールに比べ無条件に選好される、という話にはやはりならない。その議論から得られる話は、正確なルールにひどくこだわる人々は、そもそもルールを推奨することにより、自分自身の主張を弱めている、というものだ。テイラーとベックワースは、2003-2005年のFRBを批判することにより、ルールベースの金融政策を実施すべしという自らの主張をより強固にするのではなく、むしろ弱めていると私も思う。しかしその一方で、彼らのそうしたFRB批判はまったく説得力に欠けるので、ルールが裁量より良いという主張全般を弱めているかというと、そうではない、とも思う。以上から得られる教訓は、幾人かの特定のルールを推奨する人々は、きちんと物事を考え抜いていない、ということに過ぎない。

*1:ここで改宗の話が出てくるのは、ノアピニオン氏がこの前段でテイラールールを一神教に喩え、パスカルの賭けからするとFRBはそれに従うべきだが、名目GDP目標という別の一神教が出てくると話は違ってくる(=天啓の齟齬に基づく論証(argument from inconsistent revelations)――ノアピニオン氏自身はこの用語を使っていないが――の問題が生じる)、という議論を展開したため。

*2:ここでサムナーが持ち出されているのは、ノアピニオン氏がエントリ中でサムナーを名目GDP目標絶対主義者のように描写したため。それに対し、自分はそこまで極端ではない、とサムナー自身がコメントで反論し、Harlessもこのコメントでそれに同調している。
ちなみに今回のノアピニオン氏のエントリは、テイラーのこのブログエントリを読んだベックワースサムナーが、「Soon I will have a new apprentice, one far younger and more powerful」とばかりに早晩テイラーは市場マネタリスト側に転ぶぞと喜んだのに対し、いやいやテイラーの名目GDP目標嫌いはそう簡単には克服できないだろう、とDavid Glasnerが諌めたのを氏が読んだことがきっかけとなっている。この件についてはMarcus NunesBill Woolseyもエントリを立ててテイラーやベックワースのFRB批判に反論を加えており、市場マネタリストの間でさながら軽い祭り状態となった。