左派系経済学者がよくやる間違い

昨日のエントリへのokemosさんのブクマで教えてもらったが、ケビン・ドラムが、タイラー・コーエンの挙げた左派系経済学者のよくやる間違い14項目に逐一突っ込みを入れている。ちなみにケビン自身は左派系と自認している(ただし経済について論じることはあるが経済学者ではない、とも断っている)。
以下はその拙訳(連番の付いた段落が元のコーエンの文章で、その下のインデントされたブレット・ポイント付きの段落がドラムの突っ込み)。

  1. 査読付き論文で示された実証結果を遥かに超える水準で貨幣が政治において意味を持つ、と述べる。
    • 査読付き論文で示された実証結果が間違っているのではないか。それらでは貨幣の力学が政治に持つ意味をすべて捉えきれていない。
       
  2. 政府支出を個々の計画というベースで評価し、財政全体を一連の統合勘定として捉えようとしない。「社会保障」という名の下で別口の評価を行ったり、あるいは別口の評価で裁量的支出の多くを削減の検討対象から外してしまう。
    • ここで彼が言っていることをきちんと理解できたか自信が無い。
       
  3. 好みの政策計画の分析に際して洗練された「公共選択」理論を取り入れようとしない。
    • おそらくそうかも。だが一方で、「洗練された」公共選択理論は、その主唱者が思うほど洗練されていないことが多い。また、政府が機能しないという思い込みを正当化する方便として明白な形で誤用されることがあまりにも多い。
       
  4. 省略の罪。職業ライセンスなど、左派系がきちんと批判しない悪い政策は数多ある。それは、そうした批判が政府や規制の拡大を求める主張に反するため、ということが原因のこともある。
    • それはおそらく正しい。職業ライセンスはそれほど大した話だとは思えないが、確かにそういう傾向がある。我々左派は、自分の大義を利するか否かを問わず、悪い政策を批判するべき(ただし、それは誰にでも当てはまる話)。
       
  5. 労働組合がもっと強力だった時代の米国の政治経済の質を非常に過大評価し、人種差別的で腐敗にまみれて保護主義を掲げ建設的変化を阻んだという労働組合の歴史を過小評価している。
    • 実際には、左派は十分に労働組合の過去の問題を認めようとしていると思う。いや実際、我々は60年代と70年代の多くを彼らに反逆することに費やしてきたのだ。労働組合がもっと強力だった時代の米国の質という話について言えば、ほとんどの左派系の経済学者はそれほど労働組合に親和的というわけではない、と私は思う。ただ、過大評価を抜きにしても、民間の組合がもっと強くなればトータルの利益はプラスだとも個人的に考えてはいる。
       
  6. 財政政策の効果を過大評価し、金融政策の力を過小評価し、両者の相互作用を無視し顧みないこともある(「金融当局は最後に動く」*1)。
    • う〜ん、私が見る限り、左派系経済学者の大部分はそのことを理解しているように思われるが。ただ、特に今回のような不況においては、金融当局が(a)やるべきことをやろうとしていないように見える、と同時に、(b)財政拡張策に積極的に反対することもしそうにもない、のであれば、財政政策は十分に強力なものになり得る。
       
  7. 構造的失業理論の弱いバージョンを引用して、一片の文章やグラフでそうした理論を退ける。その一方で、景気循環とは関係無い別の文脈では、構造理論の強いバージョンに依拠する*2
    • これについては特に意見は無し。
       
  8. 社会政策との関連で民族やIQを論じることに興味を示さない。ただし、自分に都合の良い文脈においてはその限りでは無い。
    • 多分それは事実だが、それには然るべき理由が明らかに存在する。
       
  9. 州政府の財政状況について過度に楽観的な見方を取っている。州政府には連邦政府ほどの増税する力は無い上に、州政府の支出の方が好まれるので、そうした州政府の財政危機をそれほど深刻に受け止めない傾向や、単に税金を必要な水準まで上げることを妨害する人たちによってもたらされているのだ、と考える傾向が存在する。
    • 一般論で言えば、ここでコーエンの言っていることにも一理ある。しかし今現在は、州政府の問題は大部分が歳入の落ち込みによって引き起こされているのであり、歯止めの利かなくなった支出によって引き起こされているわけではない。それに、実際に多くの州政府の問題は、いかなる形式形態様式の増税も認めない人々の妨害によって引き起こされている。ただし、私はカリフォルニアに住んでいるので、そのために見方が偏っている可能性はある。
       
  10. 政治分野で「全力を尽くした」と言い、その後の政策の失敗を共和党の導入方法のせいにして、そもそも両党によって導入されない政策は良い政策ではないかもしれない、ということを認めようとしない傾向がある。
    • これは公正さを欠いた意見。共和党民主党の政策をまったく問題ない形で導入することができる。彼らは単にそうしなかったのだ。リベラル派に共和党サボタージュするであろうことは何もするなと要求するのは、リベラル派に決して何もするなと要求するのと同義。
       
  11. 国民皆保険の推進に当たって、非常に道徳的な議論に訴えると同時に、その責任範囲については十分に実務的で手堅いプランを提示するが、両者の間の矛盾に目を向けようとしない。「胸が痛む」類の議論を実際にどの時点で諦めて、老人以外の死亡を食い止めるために我々が幾らまで支払うべきか(そして支払う用意があるか)を、たとえ確率論的にでも示そうとしない。
    • これもまた公正さを欠いた意見。この話は基本的にマーケティングの問題であり、経済学的問題ではない。実際問題として、国民皆保険(に限らずあらゆる政策)に対する支持を構築する唯一の方法は、その長所を訴えることであり、その短所を訴えることではない。リベラル派はディオゲネス級の正直さを示すべきと主張することは、実際のところ、リベラル派が何事に関しても一般の支持を決して得られないことを確実にしようとしているに過ぎない。
       
  12. 道徳を説くに当たって暗に二段階の理論を設けている。第一の理論では国民国家(公共財の提供、等々)という枠を取り払った議論を行うが、第二の議論では社会福祉国家拡張という目的のためにコスモポリタン云々という話を脇に押しやってしまう(公正を期すために言っておくと、右派の多くはその程度のコスモポリタン云々といった議論さえ行おうとしない。ただし右派系経済学者自身は極めてコスモポリタンである傾向が強いが)。
    • これについては自分が有罪であることを認める。私は他国の社会保障制度よりは米国の社会保障制度に関心がある。
       
  13. 世界各国についての話はどうだろうか? 古典的リベラル派は、北欧諸国の持続的な成功にますます向き合おうとしている。しかし、チリや香港やシンガポールの成功については同様の話はそれほど聞かない。これもまた省略の罪。(追記:マットのコメントはこちら。)
    • これは良い点を突いているが、多分あまり見込みは無い。私の知る限り、比較政治経済学を真面目に受け止めようとしている人はほとんどいない。我々は皆、単に自分の主義主張に合う話を拾い上げているだけだ(そうした行為をする人たちを弁護するために言っておくと、国同士の比較というのは大変難しい。多くの場合、正直な形で確固たる結論を何とか引き出すのは事実上不可能である)。
       
  14. ようやく得られつつある政治的コンセンサスに水を差すのを恐れて、温暖化問題の解決がいかに難しいかを認めようとしない。
    • 実際のところ、リベラル派は温暖化問題の解決がいかに難しいかを説くことに多くの時間を費やしてきた。とは言え、この指摘にも一考の価値がある。我々は困難だと指摘し続けてきたとはいえ、実際の困難度はそれをさらに上回るだろう(ちなみにそのことが、私がジオエンジニアリング研究を支持する理由でもある。温暖化防止のために何かできると希望してはいるが、できないかもしれないと疑ってもいる。将来のある時点では、ジオエンジニアリングだけが唯一の希望となるかもしれない)。

*1:これはコーエンの口癖。例えばこのエントリここで取り上げたエントリを参照。

*2:他の項の多くでもそうだが、この項では特にコーエンはクルーグマンを意識しているように思われる。即ち、今次の不況における需要不足の要因を強調してクリングの再計算理論などを否定する一方で、熟練労働者と非熟練労働者の格差を強調する、といったクルーグマンのスタンスをここでは念頭に置いているように見える(限界生産力ゼロ論争の遺恨?)。