Nick Roweがこの2つの期待について論じている。以下はその概略*1。
適応的期待とは、ある変数Xに関して
E[X(t)] - E[X(t-1)] = B{X(t-1) - E[X(t-1)]}, 0 < B < 1
という式が成り立つことである。しかし、ここで以下の2つの疑問が出てくる。
- Bは何か?
- Xは何か?
合理的期待はその2つの疑問に一遍に回答を与えるものである。たとえば:
- 物価水準が
P(t)=P(t-1)+u(t), ただし誤差項u(t)は平均ゼロで系列相関を持たない
のようにランダムウォークするならば、XはPであり、Bは1である。この時、期待インフレ率は常にゼロとなる。
- 物価水準が
P(t)=Pbar+u(t)
のように動くならば、XはPであり、Bは0である。この時、期待物価水準は常にPbarとなる。
- インフレ率がランダムウォークするならば、Xは物価水準ではなくインフレ率であり、Bは1である。
…等々。
このように考えると、合理的期待は適応的期待の代替というわけではなく、適応的期待が積み残した2つの疑問に答えるもの、という見方ができる。つまり、合理的期待は別に適応的期待と矛盾するわけではなく、期待の適応をより正確に特定したもの、と言える。
この時、人々は裏のマクロモデルを理解している必要はなく、そもそもモデルの存在を知っている必要も無い。ただ、習慣ないし経験則に基づいて期待を決定していれば良い。
ちなみに、一般に適応的期待と合理的期待の二分法として挙げられるのは、たとえば以下のような区分である。
- 主体が経験則に従う vs 主体が真のモデルを理解している
- 経験則が世界と整合的でない vs 世界と整合的である
- 経験則が世界が変化しても変化しない vs 世界が変化すれば変化する
- 経験則が世界が変化するとゆっくりと変化する vs 世界が変化すると素早く変化する
このうち1.の区分は、適応的期待と合理的期待の二分法としては不適切である、というのがRoweの主張である。それよりは、2.の区分(3.の区分もそれに含意される)が重要、とRoweは主張する。
これに対し、常連コメンターのAdam Pが、合理的期待というのは、世界が変化した後に人々の期待がゆっくり変化するか素早く変化するかという問題ではなく、世界の変化を人々が事前に期待に織り込むという話ではないか、とコメントした。
たとえば政府が紙幣の増刷によってシニョリッジを得ようとした場合、実際に紙幣を増刷してから人々がインフレ期待を高めるのではなく、政府の意図を事前に織り込んでインフレ期待が高まる、というわけだ。前者の場合は、政府は多少なりともシニョリッジを得ることができるが、後者の場合は、政府はシニョリッジを得ることができない。
つまり、合理的期待では、Bの値が大きくなって適応度が早まる、という話ではなく、Bの値がそもそも内生的に決定される、という話になるのではないか、とAdam Pは指摘する。そして、Bが内生化されるならば、もはやそれは適応的期待とは呼べないとサージェントならば言うだろう、とAdam Pは言う。
このAdam Pの批判に対しRoweは、ルーカス自身がこのように合理的期待を説明するのをどこかで読んだ、と応じている。そして、ルーカスの合理的期待に対する考え方は、実はその後の「ルーカシアン」たちに比べれば穏健なものだったのだ、と主張している。
なお、Roweは、ルーカスが最初に合理的期待形成を導入したとされる1972年の論文「Expectations and the Neutrality of Money」について、その意義を以下のようにまとめている。