経済学者はいつになったら学ぶのか?

12/23に紹介したコラムに続き、Mark Thomaがmoneywatchで再び金融政策の限界を問うている。

Prior to the recent crash of financial markets, there was a widespread belief that monetary policy was all that was needed to stabilize the economy. By following some version of a Taylor rule (i.e. linking the target federal funds rate to inflation and output), the economy can be kept on a relatively smooth, high growth path. It was all very technocratic.

However, one important thing we learned recently is that central banks are not all powerful. They cannot prevent all large downturns in the economy and they cannot, on their own, always provide the help that is needed to stabilize the economy. How did we come to have so much faith in monetary policy? Why did we assume that monetary policy alone would be enough to stabilize the economy always and everywhere, that fiscal policy was no longer needed as a stabilization tool?

Will Economists Ever Learn? - CBS News

(拙訳)
今回の金融市場危機の前には、経済の安定させるのは金融政策で十分、と広く信じられていた。テイラールールのいずれかのバージョンに従うことにより(つまり、目標FF金利をインフレと産出にリンクさせることにより)、経済を比較的スムーズで高い成長の経路に維持できる、というわけだ。それは技術の問題になっていた。
しかし、我々が最近学んだ一つ重要なことは、中央銀行がそれほど万能ではない、ということだ。経済のすべての下降を防ぐことはできないし、単独で経済を安定させるのに必要な助けを供給することはできない。どうして我々はこれほど金融政策に信を置くようになったのか? どうして我々は、経済を安定させるにはいつでもどこでも金融政策だけで十分で、財政政策は安定化策としてもはや不要だと考えるようになったのか?

この冒頭部で提示した疑問に対し、Thomaは以下のように自らの回答を提示している。

  • 1984年以降の大平穏期(the Great Moderation)が、中央銀行家の手腕によるものだと金融経済学者が信じた。当時のグリーンスパン称賛はその表れ。
  • 金融政策技術の発達により、経済の大きな崩壊はもう起こることはないと考えられ、そうした研究はなおざりにされた。その代わり、金融政策の実務者や学者は、政策の精緻化に重点を置くようになった(例:テイラールールの産出の係数を.5にすべきか.92にすべきか、あるいはインフレ率としてどのインフレ率を使うべきか、等)。
  • 財政政策には政治闘争がつきものなので(財政支出vs減税、対象者を誰にするか、等)、「通常」の経済の落ち込みへの適用は困難と考えられるようになった。そのため財政政策は顧みられなくなった。いずれにせよ中央銀行が同じ仕事ができるならば、なぜ膠着状態に陥る可能性の高い政治闘争を行なう必要があるのか?、というわけだ。


その結果、今回の危機が訪れた際、金融の政策当局者も財政の政策当局者もまったく準備ができていなかった、とThomaは批判する。特に金融政策当局者は、車のヘッドライトに立ち竦む鹿のようだった、と彼は揶揄する。そして、もし危機に関する研究をあれほどおざなりにしていなければ、例えば不良資産のオークション方式について、今回のように泥縄式で検討し作り上げるような醜態を演じなくて済んだはずだ、と指摘する。


またThomaは、経済学界がこのような過信に陥ったのは初めてでないことも指摘する。1950年代の後半にフィリップス曲線が発見されると、経済学者たちは、経済安定化の問題は、失業率とインフレ率の組み合わせを選ぶという問題に帰着した、と考えた。しかし1970年代のスタグフレーションといった出来事が、その過信を打ち砕いた。


それにも関わらず、そのすぐ後の1980年代には、経済学者たちはまた過信に陥ってしまった。一体いつになったら経済学者たちは学ぶのか、という皮肉っぽい問い掛けでThomaはこのコラムを締めくくっている。