予想とノルム

引き続きリッチモンド連銀のアセモグルインタビューについてのエントリ。前回前々回エントリで紹介した箇所の前段でアセモグルは、昔は経済成長すれば労働者を含め社会のすべてのセグメントが恩恵を受けると考えていたが、今はそのことをそれほど確信していない、と述べている。近著では、その問題に関して次の3つの要素の重要性を強調したという。

  1. その時点の技術の性格
  2. 労働者の交渉力を形成する制度
  3. 予想とノルム(expectations and norms)

このうち、最後の予想とノルムがとりわけ重要、とアセモグルは主張する。一例としてアセモグルは、Alex He、Daniel le Maireとの共同研究*1で見い出された、ビジネススクールで教育を受けた経営者が賃金を削減する傾向を挙げている。彼らは、株主の利益を追い求め、企業をスリムにする、というビジョンないし予想ないし思想に従っている、というのがアセモグルの見方である。
大規模言語モデルなどのAIをはじめとするデジタル技術の急速な普及によって組織の技術(organizational technologies*2)が変化している今のような転換期には、予想とノルムは特に重要性を増す、とアセモグルは言う。ビジネス界は、人間よりもそうしたツールにますます依拠するべき、というビジョンで動いており、そのこともそうした変化を駆動している。そのような変化の時に際して予想とノルムが重要になるのは、技術の方向性がまだオープンだからである。労働者を削減し、脇に追いやり、彼らならではの技能を使わない方向に進むこともできるし、労働者の新たな業務と新たな機会を創造する方向に進むこともできる、とアセモグルは言う。

ここでアセモグルは、インタビュアーの指摘に応じて、David Autor、Jonathon Hazell、Pascual Restrepoとの共著論文*3の内容を紹介している。その研究によれば:

  • AI関係の雇用は2013年ないし2014年時点でもまだあまり多くなかった。2015-2016年に変曲点が生じ、それ以降、多くの産業の多くの事業所でAI関係の労働者を求めるようになった。
  • 研究では企業レベルではなく事業所レベル(バーガーキングならばバーガーキング社全体ではなく店舗レベル)の求人を調べたが、どのような事業所がAI関連の人材を求めているかというと、複雑な機能が必要な創造的な業務ではなく、AI技術で置き換えられるような単純業務を行っている事業所であった。

急速に普及する自動化技術は、賃金や労働者への需要を常に増やすわけではなく、一部の職を消滅させるのではないか、という疑念を自分たちは過去の事例に鑑みて抱いていたが、この結果はそれを裏付けるものとなった、とアセモグルは言う。また、この研究は大規模言語モデル登場以前のものなので、その技術についてはまた話が違ってくるだろう、とアセモグルは注記している。
それに対しインタビュアーは、では労働者は、AIが変えつつある労働市場の需要にどのように対応すれば良いのか、とアセモグルに尋ねている。アセモグルは、それは自然な疑問で、労働者の観点からすれば良い質問だが、唯一の質問ではなく、必ずしも正しい質問ではない、と返している。というのは、社会的観点からなされたその質問は、AIはある方向に向かって生じている雪崩であり、我々はそれに適応するしかない、という考えに既に取り込まれているからである。もちろん我々は全ての新技術に適応する必要があるが、その前に、どのようなAIを自分たちが欲しいのか、社会、なかんずく労働者にとって最も利益となる将来技術は何か、という問いを立てる必要がある、とアセモグルは言う。この観点からすると、AI業界は間違った方向に進んでいる、というのがアセモグルの見方である。技術が労働者の仕事、民主主義、メンタルヘルスといった問題に及ぼす影響に一片の考慮も払われていないからである。

この後アセモグルは、インタビュアーが問い掛けた労働者の適応の問題に改めて触れ、すべてがデジタル化されるわけではないので、人とのコミュニケーションスキルや創造性に長けた労働者、および、大工、電気技師、配管工など、機械で上手く置き換えられない技能を持つ労働者が労働市場で有利になるだろう、と述べている。また、大工、電気技師、配管工の仕事を上手く機械で補完できるようになることの利益は非常に大きい、と指摘している。

以上、アセモグルインタビューから予想とノルムを中心とした箇所の話の概要を紹介したが、この後に、前々回エントリで紹介した経済学的観点からのAI規制の話が続くことになる。