ハモンド・インタビューの昨日エントリで紹介した箇所でフリードマンは、ポパーから大きな影響を受けたことを認めている。しかしその後ポパーは、フリードマンの方法論を道具主義(instrumentalism)としてむしろ批判するようになり、人間的にも寛容さを失っていったという。そのためフリードマンは、以下のように、自身の方法論をいわゆるポパー的な方法論とは異なるものとして説明している。
If you and I disagree about a proposition, the question is how do we resolve our difference? If we adopt a Misesian methodological point of view, the only way we can resolve our difference is by arguing with one another. I know it from what’s inside me, you know it from what’s inside you, and so you have to persuade me that I’m wrong, or I have to persuade you that I’m right. There is no other appeal. And so ultimately we have to get to fighting. I’m right, you’re wrong; I’m right, you’re wrong; I’m right, you’re wrong. The virtue of what I take to be the original Popperian methodological view, or of the point of view that I really adopt, which is neither Popperian or von Misesian. What it really is is more Savage–de Finetti. You asked if I read methodology and philosophy, I’ve read a great deal in the field of statistical methodology and statistical philosophy, and Jimmie Savage was one of my closest personal friends. And as you know we collaborated extensively. He was one of the few people I knew whom I would unhesitantly classify as a genius. And Jimmie said, and this is a crucial point, ‘the role of statistics is not to discover truth. The role of statistics is to resolve disagreements among people. It’s to bring people closer together.’
(拙訳)
ある命題について意見が一致しなかった時、どのように不一致を解決するか、が問題となります。ミーゼス的な方法論の観点に立てば、不一致を解決する唯一の手段は互いに議論することです。私は自身の考えに基づいてこうだと理解している、あなたは自身の考えに基づいてそうだと理解している、従ってあなたは私が間違っていると説得する必要がある、もしくは私が自分が正しいとあなたを説得する必要がある、というわけです。それ以外の手段はありません。そのため、最終的には喧嘩に行き着かざるを得ません。私は正しくてあなたが間違っている、いや、私が正しくてあなたが間違っている、いやいや、私が正しくてあなたが間違っている、というわけです。本来のポパー的な方法論の観点だと私が理解しているもの、ないし、私が実際に採用した観点の長所は、ポパー的でもミーゼス的でもありません。むしろ、サベージ*1=デ・フィネッティ*2的なのです。貴兄は私が方法論や哲学の著作物を読んだか、とお尋ねになりましたが、私が大いに渉猟したのは統計的方法論と統計的哲学の分野でした。そしてジミー・サベージは私の個人的に親しい友人の一人でした。ご存知の通り、我々は共同で様々な仕事をしました。彼は、私が迷うことなく天才に分類する数少ない人間の一人でした。ジミーは次のように述べました――そしてこれは極めて重要なポイントです――「統計学の役割は真実を発見することではない。統計学の役割は人々の間の意見の不一致を解決することにある。人々の考えをより近付けるためにね。」
その点をフリードマンは以下のように具体的に詳説している。
Go back and look at it in those terms. Suppose you adopt that point of view—the methodological point of view I adopt—and suppose you and I differ, and we come to the point where after arguing with one another we’re at an impasse. Well then we have a recourse. I could say to you, “Tell me, what evidence would I have to get that would persuade you you were wrong?” And you say to me, “What evidence would I have to get to persuade you?” And then we can go out and look for the evidence. The way in which Jimmie Savage would describe that would be to say, you have a set of personal probabilities about events of the world, and this particular proposition we’re arguing is one of them. I have a set of personal probabilities. Those personal probabilities differ. That’s why we argue. The role of statistical analysis is to lead us to reconsider our personal probabilities in the hope that our personal probabilities will come closer and closer together. So you start out thinking in the simplest case that this coin is a fair coin and I think it’s unduly loaded heads, and so we discuss the experiment which will lead us to discriminate and then we go and toss the coin. And either I say ‘You’re absolutely right’, or vice versa. What we’ve done is to revise our personal probabilities. Your personal probability was 50 per cent—we haven’t demonstrated that there’s any such thing as ‘the’ probability which is 50 per cent. That’s what Jimmie means when he says you’re not searching for truth. Because if there be a truth, there’s no way of knowing when you get it.
The trouble I always have with those people who say, you’re not looking for truth. Of course I’m looking for truth. But the question is, how do I know when I get it? And the answer is, I never will. And therefore no matter how much evidence I get, I never can have one hundred per cent confidence that I have the truth.
(拙訳)
先ほどの話をそうした見方から見てみましょう。その観点、私が採用した方法論の観点を採用するものとします。あなたと私の意見が違うものとし、お互いに議論した後、話が手詰まりになったものとします。今やその時に使える手段があります。私はあなたに「では、あなたが間違っていると説得するには、どんな実証的証拠を持ってくれば良いでしょうか?」と訊けるのです。あなたも私に「あなたを説得するには、どんな実証的証拠を持ってくれば良いでしょうか?」と訊けます。それから両者は実証的証拠を探し求めるのです。そうした状況をジミー・サベージの言葉を借りて表現するならば、あなたは世界の事象について個人的な確率集合を持っており、その中のある命題について我々は議論している、ということになります。私も個人的な確率集合を持っていて、両者の個人的確率が異なっているために議論が生じているわけです。ここで統計的分析が果たす役割は、両者の個人的確率が収束していくという期待の下、我々にそれぞれの個人的確率を再検討させることにあります。極めて単純なケースとして、あなたがこのコインは裏表平等に出ると考え、私が表が出やすいと考えているとします。すると我々は両者の違いを明らかにする実験について議論し、それからコイントスを行うわけです。その結果、私が「あなたが完全に正しい」と言うか、もしくはその逆になります。ここで我々が行ったのは、自身の個人的確率を改訂した、ということです。あなたの個人的確率は50%でした。我々は、50%という「絶対的な」確率なるものが存在する、ということを示したわけではありません。真実を探しているわけではない、とジミーが言った時、彼が意味していたのはそういうことでした。真実が存在したとしても、それを手にしたことを知る術は無いからです。
あなたは真実を求めていないね、という人とはいつも話が紛糾します。もちろん私は真実を求めています。ただ問題は、それを手にしたとどうやったら分かるのでしょうか? その答えは、決して分からない、というものです。従って、どれだけ実証的証拠を集めたとしても、真実を手にしているという100%の確信は決して得られないのです。
この後フリードマンは、不況はその前の好況に原因があるというミーゼスの景気循環論についてこの手法を適用し、好況とその後の不況の大きさの相関はゼロだが、不況とその後の好況の大きさの相関は高いことを示した、というエピソードを紹介している。フリードマンに言わせれば、その実証結果はミーゼスの理論を決定的に反駁するものだったが、ミーゼス派側は全く反応せず、その後も同じことを言い続けたとの由。