33ヶ条の論題

今月12日にスティーブ・キーン(Steve Keen)らが、マルティン・ルター95ヶ条の論題よろしく経済学改革のための33ヶ条の論題を新古典派が牛耳る(と彼らが考える)経済学界に突き付け、LSEの玄関に「打ち付ける」というパフォーマンスを行った(H/T Mostly Economics経由のFrances Coppola)。
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以下はその33ヶ条の拙訳。

   <経済の目的>

  1. 経済の目的は社会に決定をさせることにある。いかなる経済目標も政治とは切り離せない。成功の尺度は政治的選択に相当する。
  2. 富と所得の分配は経済の現実にとって根本であり、経済理論においてもそうあるべきである。
  3. 経済学は価値から自由ではなく、経済学者は自らの下す価値判断について明らかにすべきである。特に経済学の訓練を受けていない人には見えにくい価値判断についてそうすべきである。
  4. 政策は競技場を「水平」にはせず、ある方向に傾ける。我々は自分たちがどのような経済を欲し、そこにどのように辿り着くかについてもっと明示的に議論すべきである。

    <自然界>

  5. 経済の本質は自然界の一部ということであり、自らがその中で機能する社会の一部である、ということである。経済が独立した単体で存在することはない。従って社会制度と生態系は、経済の機能において外部ではなく中心的なものである。
  6. 経済は自然界からの入力、もしくは自然界が提供する多くの生命維持システムなしには存続することも繁栄することもできない。経済はエネルギーと物質の継続的な流れに依存しており、微妙なバランスを保っている生命圏の中で機能している。自然界をモデルの外部として扱っている経済理論は、自然界の悪化が理論の見通しにどのような悪影響を与えるかを完全に理解することはできない。
  7. 非再生エネルギーや資源は無限には利用できないこと、および、そうした資源ストックを使用してそこに含まれるエネルギーを取り出すことは、地球全体のエネルギーバランスを変えてしまい、気候の大変動のような結果をもたらしてしまうことを経済学は認識すべきである。
  8. 経済と生態系の間のフィードバックは無視できない。今日までそれを無視してきたことは、自らが内側にいる生態系の存続可能な閾値をとうに超えたところで機能しつつも機能維持のためにさらなる成長を必要としている世界経済をもたらした。しかし経済学は地球の生態系の客観的な制約の中で基礎付けられるべきである。

    <制度と市場>

  9. すべての市場は法、習慣、文化によって形作られており、政府がすること、しないことによって影響を受ける。
  10. 市場は、異なる種類の官民の組織(およびボランティア部門と市民社会の組織)の相互作用の結果である。こうした組織が実際にどのように組織されるか、ならびに、組織間の関係がどのように機能する、および機能し得るか、についてもっと研究されるべきである。
  11. 市場はまた、需給の単純な関係が示すよりもより複雑で、より予測可能性が低い。経済学は市場の振る舞いについて理解を深めるべきであり、物理学、生物学、計算機科学で利用されている複雑系の科学から学べることがある。
  12. 制度が市場を形作り、すべての経済主体の行動に影響を与える。従って経済学は制度をモデルの中心として扱うべきである。
  13. 異なる経済には異なる制度があるので、ある経済で上手く機能する政策が別の経済で上手くいかないこともある。とりわけこの理由により、抽象的な経済理論だけに基づいた普遍的に適用可能な一連の経済政策を提案することが有益である可能性は低い。

    <労働と資本>

  14. 賃金、利益、および資産へのリターンは様々な要因に左右されることが示されるが、その中には生産への労働、企業、資産の所有者の相対的な寄与だけではなく、彼らの間の相対的な力関係も含まれる。経済学は、社会の異なる集団が受け取る所得の比率に影響する選択に対しより適切な情報を与えるため、こうした要因を幅広く理解する必要がある。

    <意思決定の性格>

  15. 誤り、バイアス、パターン認識、学習、社会的相互作用、および文脈はすべて、経済理論で認識されていない行動に対する重要な影響である。従って主流派経済学は人々の行動についてより幅広く理解するべきであり、社会学、心理学、哲学やその他の学派から学べることがある。
  16. 人々は完全ではなく、「完全に合理的な」経済の意思決定はあり得ない。将来に何らかの形で関係する経済の意思決定はすべて定量化不可能な不確実性をある程度伴っており、従って判断が必要となる。主流派経済学の理論と実務は不確実性の役割を認識すべきである。

    <格差>

  17. 市場経済では、同じ能力、嗜好、初期財産の持ち主が最終的に同水準の富に達するとは限らず、その差はランダムな変動だけで決まる。運や環境の僅かな違いが同じような人々の帰結に対し大きな違いをもたらし得る。
  18. 市場はしばしば格差拡大の傾向を見せる。一方、格差社会は様々な社会厚生指標について悪しき結果を見せる。こうしたことがなぜどのように起こるか、および、どうしたら避けられるかを理解するために主流派経済理論にはもっとやれることがあるはずである。
  19. 国が富めば格差も必然的に拡大するがその後縮小する、という命題は、誤っていることが明らかになった。GDP成長率と格差のいかなる組み合わせも可能である。

    GDP成長、技術革新、債務>

  20. 成長は経済的であるのと同じくらい政治的な選択である。「成長」を追求することを選択したならば、「何を、なぜ、誰のために、どのくらいの期間だけ成長させるのか、そしてどれだけ成長すれば十分なのか?」という問いはすべて明示的もしくは暗黙裡に回答されなければならない。
  21. 技術革新は経済の外部のものではない。それは経済活動の内在的な一部である。絶えず進化している不均衡な生態系の中で起きており、市場の設計ならびにその中の経済主体すべての相互作用によって形作られる、というように我々が技術革新を認識したならば、GDP成長に対する我々の理解も改善するだろう。
  22. 技術革新には率と方向がある。技術革新の「方向」に関する議論は、政策決定における「目的」の理解が必要となる。
  23. 民間債務も経済の成長率に大きな影響を与えるが、経済理論では考慮されていない。債務の創造は信用によって賄われる需要を経済に追加し、財と資産の両市場に影響する。金融と経済は分離不可能である。

    <貨幣、銀行、危機>

  24. 経済で流通する新規貨幣の大部分は、商業銀行が新規融資をするたびに創造されたものである。
  25. 貨幣がどのように創造されるかは、社会の中での富の分配に影響する。従って、貨幣創造の手法は単なる技術的な問題ではなく、政治的な問題として理解されるべきである。
  26. 貨幣と債務を創造することから、銀行は経済において重要な主体であり、マクロ経済モデルの中にも含まれるべきである。銀行を含まない経済モデルは銀行危機を予測できない。
  27. 経済学は、不安定性と危機を外部から市場に影響する「ショック」として扱うのではなく、それらが市場内部でどのように生成され得るかをより良く理解する必要がある。
  28. 金融化には、短期主義と投機的金融、および、金融化された実体経済、という2つの側面がある。この2つの問題は合わせて研究されなければならない。

    <経済学教育>

  29. 優れた経済学教育は複数の理論的アプローチを学生に提示しなくてはならない。その際、制度学派、オーストリア学派マルクス主義ポストケインジアンフェミニスト環境学、および複雑系といったように、経済思想の歴史や哲学だけではなく現在の様々な視点も提示すべきである。
  30. 経済学それ自体が独占的であってはならない。学際的な課程は、金融危機、貧困、気候変動の経済的現実を理解する上で鍵となる。従って政治学社会学、心理学、および環境科学も、既存の経済理論に対する付け足しとして扱われることなくカリキュラムに組み込まれるべきである。
  31. 経済学は価値中立的なモデルや個人の研究として教えられるべきではない。経済学者は倫理学政治学に通じている必要があり、意味ある形で公的な関与を行う準備もできていなくてはならない。
  32. 統計学定量モデルに圧倒的な重きを置くことにより、経済学者は他の考え方が見えなくなっている可能性がある。学生たちは、定性的研究、インタビュー、フィールドワーク、理論的な討論、といった他の手法論的アプローチを探究するための支援を受けるべきである。
  33. 何よりもまず経済学は、単に理論を覚えることやモデルを導入することに報酬を与えるのではなく、批判的思考を促すことにもっと努めるべきである。学生は、理論を比較し、対照し、結合し、実世界の奥深いケーススタディにそれを批判的に適用することを奨励されるべきである。

この33ヶ条の論題に対してCoppolaは、95ヶ条の論題がキリスト教の根源に立ち返った上で批判を展開したのに対し、こちらはアダム・スミスケインズなどの古典に立ち返ることなく表層的な批判に留まっており、経済学の現状も把握していない、という辛口の評価を下している。確かにKeenは経済学者として今イチと小生も思わないでもなく、この33ヶ条も経済学の碩学による内部批判というよりは、むしろ一般的な経済学への批判の一つとして捉えた方が良いのかもしれない。