以前紹介したオファー=ソダーバーグの著書をブランコ・ミラノビッチが取り上げ、以下のように書いている。
Offer and Söderberg define social democracy as a continuation of Enlightenment: from equality before God to equality before law, to equality between men and women and races, to equality of entitlements between citizens. Since each citizen goes through periods of dependency (as a child, as a mother, as unemployed, or as an old person) when he/she cannot earn an income, he has to depend on transfers from the working age population. This life-cycle pattern is shared by all, and thus society, in a form of social insurance, sets a system that provides redistribution from the earners to the dependents.
How does market liberalism solve the life-cycle problem? By positing that everyone is a free agent with his endowments of capital and labor. When he cannot work, he uses the proceeds from his capital (assuming of course that he originally either inherited or saved enough wealth to have a capital). It is not a “society” in a true sense of the word, but a group of “agents” who manage own income over the life-cycle. Since returns are to one’s ownership of labor and capital and there is no redistribution, it is a “just world” society where one gets back what he has put in, and where income inequality is never an issue—precisely because income is exactly proportional to one’s contributions.
These are indeed two different views of the world. As Offer and Söderberg write, social democratic view was extremely successful empirically but was not theoretically worked out much by economists. The neoliberal view has exactly the reverse characteristics: empirically it was not much of a success (look at private pension schemes in Chile), but economists have extensively worked on it theoretically.
Neoliberal view became dominant in the early 1980s as social-democratic model was blamed for the slowdown in growth. The Nobel prize accelerated this shift because it tended to favor neoliberal version of economics.
(拙訳)
オファーとソダーバーグは社会民主主義を、啓蒙主義の継続として定義している。神の前の平等から法の前の平等へ、男女および人種の平等へ、市民の受給の権利の平等へ、というわけだ。誰もが(子供や母親や失業者や老人として)所得を得られず他者に依存する時期を経験し、その時は現役世代からの所得移転に頼らざるを得ない。このライフサイクルのパターンは皆が共有するので、社会は、社会保険という形で、所得を得る人から依存する人への再分配システムを設定する。
市場自由主義はどのようにこのライフサイクルの問題を解決するのだろうか? 皆が資本と労働力を賦与された自由な主体である、と仮定することによってである。働けなくなった人は、資本からの収益を消費する(当然のごとく、資本を所有するのに十分な富を最初に相続もしくは貯蓄したと仮定されている)。これは本来の意味での「社会」ではなく、ライフサイクルを通じて自らの所得をやり繰りできる「主体」の集まりである。収益は自身が所有する労働力と資本に対するものであり、再分配は存在しないため、この世界は、自分が投入したものが返ってくる「応分の世界」であって、所得格差が問題になることは決してない。というのは、所得は貢献に正確に比例しているからである。
これは世界に対する全く違った2つの見方である。オファーとソダーバーグが書いているように、社会民主主義的な見解は実証面では非常な成功を収めたが、経済学者の理論的研究はそれほど上手くいかなかった。ネオリベラル的な見解はその全く逆である。実証的にはさほど成功しなかったが(チリの年金スキームを見よ*1)、経済学者たちは精力的にその理論研究を行った。
ネオリベラル的な見解は、社会民主主義モデルが成長鈍化の咎で非難された1980年代初頭に主流となった。ノーベル賞は、ネオリベラル流の経済学を好む傾向にあったため、その動きを加速させた。
この後ミラノビッチは、オファー=ソダーバーグ本に基づき、ノーベル賞を「カネで買った」リクスバンクや、かつて社会民主主義を掲げた欧州の政党の変節への批判をひとしきり展開している。だが、意外にも、社会民主主義の復権の可能性についてはオファー=ソダーバーグと意見を異にしている。ネオリベラリズムの失敗が(一部の頑迷固陋な経済学者を除き)大方の目に明らかになっているとしても、世の中の客観的な状況が社会民主主義に逆風となる形で変化したため、以前の状態に戻ることはない、とミラノビッチは言う。具体的な客観的な状況の変化として彼は以下の4つを挙げている。
- 多文化主義
- フォーディズムの終焉
- 人口動態
- 社会民主主義は、人口が増加していて生産年齢人口が多い国における賦課方式のシステムを利用して成功した。多くの人が働いて退職者に所得を移転し、自分が退職した後も同様の移転が得られると期待していた。しかし、人口が減少していて生産年齢人口に比べ退職者が多くなりすぎると、賦課方式のシステムは維持が難しくなる。年金支給年齢の引き上げや年金の減額は不可能ではないが、政治的に実行が簡単な施策では決してない。
- グローバル化
ミラノビッチは、ネオリベも社会民主主義も今日の問題にまともな答えを提示できないので、新たな思想と実験を探るしかない、と述べてエントリを締め括っている。
*1:cf. 生みの親の成功という評価、最近のFT記事(翻訳)。