今さら労働価値説?

ブランコ・ミラノビッチが直近のブログエントリで、経済学者の間でも誤解がみられる、として労働価値説を改めて解説している。そこで彼は、小商品生産(petty commodity production)において生じる労働の剰余価値(surplus value)の話を説明した上で、その話を資本主義経済に拡張しようとしても、資本主義経済の均衡価格は(各部門のリスク調整後利益率が収束する)マクロ的な資本利益率で決まるので、上手く行かない(=転形問題(transformation problem)が生じる)、と解説している。そして、マルクスの労働価値説を以下のように斬って捨てている。

Now, if Marx, Walras and Marshall agree on the equilibrium price in capitalism, where is the labor theory of value? For Marx, it emerges only at the aggregate level where Marx posits that the sum of values will be equal to the sum of production prices. The former is an unobservable quantity so Marx’s contention is not falsifiable. It is therefore an extra-scientific statement that we have to take on faith.
(拙訳)
ここで、マルクスワルラス、マーシャルが資本主義における均衡価格について同意するならば、労働価値説は何処に行ったのであろうか? マルクスにとってそれは、価値の合計は生産価格の合計に等しくなる、という彼の前提の下にマクロレベルでのみ現れるものである。価値の合計は観測不可能な量なので、このマルクスの主張は反証可能ではない。従ってそれは科学の範囲を超えた主張であり、信じる人のみ受け入れる、ということになる。


とは言え、労働価値説からも汲むべき重要な点はある、としてミラノビッチは以下の3点を挙げている。

  1. マルクスの資本主義における均衡価格は、ワルラスやマーシャルの長期価格に等しい。
  2. 労働価値説が意味するところは、財の生産に必要な「社会的必要労働(socially necessary labor)」とは無関係に人々には労働投入分だけが支払われる、と嘲笑的に言われることがあるが、それは真実とは程遠い。
  3. 均衡価格は、生産における関係性(=誰が資本を所有するか、あるいは場合によっては(奴隷的)労働を所有するか)と独立に決まることはない。ミラノビッチに言わせれば、この点を強く主張したのがこの分野におけるマルクスの真の貢献。
    • 生産手段を所有している小規模の生産者から成る経済と、資本主義経済とでは、経済規模が同じでも、相対価格は異なるだろう。ミラノビッチに言わせれば、前近代社会を理解する上でこれは重要なポイント。


このミラノビッチのエントリに強く反発したのがマウント・ホリヨーク大学のマルクス経済学者のFred Moseleyで、Econospeakのゲストエントリで上述の3点それぞれについて以下のような反論を寄せている。

  1. マルクスワルラス、マーシャルの長期均衡価格が形式上は同じという点には同意するが、重要な違いがある。マルクスは、同式における利益率について、(彼のマクロ的な利益の理論に基づき)論理的に厳密な理論を提供している。ワルラスとマーシャルは、「機会費用」という名の下に利益率を所与のものとして扱っているに過ぎず、利益に関する理論は何も提示していない。この重要なポイントにおいて、マルクスの長期均衡価格理論はワルラスやマーシャルのものよりも優れている。
  2. ミラノビッチの言う、労働価値説について嘲笑的に言われること、とは、労働者が賃金よりも多くの価値を生産し、それが資本主義によって搾取される、という話かと思われる。しかし、マルクスの長期均衡価格理論は、労働者の剰余労働が利益の源泉になっている、という彼のマクロ的な利益の理論に基づいている。この結論は実際に嘲笑的なものであり、マルクスの利益理論が説明力に優れているにも関わらず主流派経済学者から否定されてきた主たる(非科学的な)理由である。
  3. ミラノビッチは、マルクスの労働価値や利益の理論は、前資本主義経済の理解や、資本主義経済と非資本主義経済の関係の理解に有用と言う。しかし同理論は、むしろ、21世紀の資本主義を含めた資本主義経済における最も重要な現象を理解する上での最善の理論である。主流派経済学が説明力の高い頑健な利益理論を持っていれば話が別だが、実際には主流派経済学には利益理論はほとんど存在していない。従って、科学的な見地からすると、マルクスの利益の剰余労働理論はもっと真剣に検討されるべき。


Econospeakの後続エントリでピーター・ドーマンは、資本主義経済の分析において利益の理論が重要であることには完全に同意するとしつつも、労働価値説がそうした役割を担うかどうかについては疑問視している(ドーマンに言わせれば、同説はせいぜい単なる会計上の関係に過ぎないとの由)。ドーマンがむしろ注目するのは、相対的過剰人口に基づくマルクスの交渉仮説である。この仮説は時の経過に耐えた、とドーマンは言う。
ドーマンはまた、利益と搾取を巡るマルクスプルードンの論争に再び脚光を当てる時が来た、とも論じている。プルードンは、規模の経済に着目し、労働者は限界生産物に応じて賃金を受け取るもののその総計は生産の価値を下回る、と論じて、協同組合を提唱したという。だが、自分の考えを数学で正確に表現できなかったため、マルクスからは話が混乱している、と思われたとの由。ドーマンは、自分も含め現代の経済学者はプルードンに少なくとも部分的には同意するだろう、と述べている。同時に、規模の経済の議論は、事業において単一の最適効率が存在するという前提に依存していることが多い、という点も指摘している。ドーマンはその前提を疑問視しており、多峰性や、規模のほかに発見や計画を織り込んだより複雑な経済のビジョンにプルードンの考えを織り込むのがこれからの経済学の重要な課題だ、と述べている。