タイラー・コーエンが表題のブログエントリ(原題は「What’s the natural rate of interest?」)で自然利子率について7つの論点を挙げた。以下はその概要。
- デビッド・デビッドソンとクヌート・ヴィクセルは20世紀初頭に自然利子率の概念について論争した。その論争ではデビッドソンが勝ったというのが大多数の見解で、ヴィクセルでさえそれを認めていると見られる。ある金利が完全雇用と安定的なインフレを両立させるか否かは生産性成長率に依存する、というのはその一例。両者を両立させるような単一の金利は存在しない可能性もある。
- ケインズは自然利子率の概念を否定することに心血を注いだ。彼はそれを許し難いほどオーストリア学派的だと見做し、限界における流動性選好との交点が金利を形成し、従って自然利子率は複数あり得る、と論じた。彼はまた、資本主義的な安定性を維持する金利が存在しない場合が多々ある、と論じた。
- 戦後の経済学において、トービン、ヒックス、ハンセン、モジリアニらケインズ主義者は自然利子率を主流派マクロ経済学から締め出そうとした。
- スコット・サムナーが指摘したように、かつての自然利子率は物価の安定性についての話だったが、今やそれは年率2%のインフレ率の話に変質してしまっている。0%も2%も特別な数字ではないので、そうした知的戦略は自然利子率が複数あることを暗に示唆しており、その点で奇妙に思われる。また、インフレ率、インフレ率の増加、期待インフレ率、等々の区別が曖昧になっている。
- ミルトン・フリードマンは金融のトランスミッションを考える際に金利を重視し過ぎるな、と警告した。その論文では自然利子率の概念にも疑問を呈している。対照的に、自然利子率の概念を復権させるのに一役買ったマイケル・ウッドフォードは、金利を議論の中心に据えた。
- スラッファがハイエクと論争した際、自然利子率はそれほど意味のある概念ではない、と論じた。その論争ではスラッファが勝ったように思われる*1。実証面では、Hamilton, Hatzius, Harrison, and West論文が自然利子率の値が実際にばらついていることを示した。Carola Binderは、「より一般的に使われる90%もしくは95%の信頼区間ではもちろん幅がもっと広くなり、間違いなく2000年において0%と6%を共に含んでいただろう。」と書いた*2。
- 今日、完全雇用と整合的な自然利子率がマイナスであるという話を目にするが、経済成長率と資本の限界生産力がプラスである世界ではその話は意味をなさない*3。成長率が概ねマイナスだった1942年のスターリングラードならば意味をなすかもしれない。
これにデロングが反応し、この7つの論点はすべて反論されるもの、と述べている。例えば7番目は、リスク資産への投資からの期待リターンと、消費の限界的な期待効用の逆数の時間的な傾斜との間の差を無視している、とデロングは言う。リスク許容度の低下によってその差が大きくなると、経済成長と資本の限界生産力がプラスでも、完全雇用と整合的な低リスク自然利子率はマイナスになり得る、とデロングは指摘している。この点についてデロングは、10年物長期国債とインフレ連動債の金利の最近の推移を傍証として挙げている。
また2番目についてデロングは、ケインズは分析面で間違いを犯した、と主張している。というのはケインズは、支出が金利を決定すると考えていたが、ヒックス(1937)が明らかにしたように、支出と金利は同時決定されるからである。ケインズは貨幣への需給で金利が決まるという貸付資金説を否定して流動性選好説を打ち出したが、実際には両説は鋏の2つの刃であり、片方の理論だけでは金利が決定されない、とデロングは言う。
さらにデロングは、1994年7月20日にグリーンスパンが、GDPの需要項目に焦点を当てるケインズ主義的な考え方や、貨幣供給量に焦点を当てるマネタリストの考え方と決別し、金利に焦点を当てるヴィクセル的な考え方に舵を切ったことを取り上げ、過去四半世紀の歴史に鑑みると、それは悪くない決断だったのではないか、と論じている。
またクルーグマンも反応し、以前ここで紹介した論争を引きつつ、コーエンの議論を彼特有の余計な複雑化(gratuitous complexification)とした上で、以下のように切って捨てている。
Anyway, what we need here isn’t a priori arguments or discussions of intellectual history, except insofar as they inform the question at hand: is there any reasonable case that interest rates are being kept “artificially” low given the macroeconomic realities? And there isn’t.
(拙訳)
いずれにしろ、今我々に必要なのは、思想史に関する先験的な主張や議論ではない。例外は、それが現下の問題について我々に何かを教えてくれる場合のみである。その問題とは、マクロ経済の現実を前にして、金利が「人為的に」低く留め置かれているという主張に何か合理性はあるか、というものである。そしてそうした合理性は存在しないのである。
*1:この論文の著者の一人はDavid Glasnerで、論文の直近版をSSRNに上げた時のエントリはこちら。また、本ブログでの関連エントリはこちら。なお、論文の要旨には以下の一節がある。
Although Hayek's response failed to counter Sraffa’s argument, Ludwig Lachmann later observed that Keynes's treatment of own rates in Chapter 17 of the General Theory (itself a generalization of Fisher’s (1896) distinction between the real and nominal rates of interest) undercut Sraffa's criticism. Own rates, Keynes showed, cannot deviate from each other by more than expected price appreciation plus the cost of storage and the commodity service flow, so that anticipated asset yields are equalized in intertemporal equilibrium. Thus, on Keynes's analysis in the General Theory, the natural rate of interest is indeed well-defined.