民主的なケインズ主義は可能なのか?

引き続き、クリス・ディローの企業批判ネタ。表題のエントリ(原題は「Is democratic Keynesianism possible?」)でディローは、カレツキの「完全雇用の政治的側面」から以下の一節を引用している*1

Under a laissez-faire system the level of employment depends to a great extent on the so-called state of confidence. If this deteriorates, private investment declines, which results in a fall of output and employment..This gives the capitalists a powerful indirect control over government policy...But once the government learns the trick of increasing employment by its own purchases, this powerful controlling device loses its effectiveness. Hence budget deficits necessary to carry out government intervention must be regarded as perilous. The social function of the doctrine of 'sound finance' is to make the level of employment dependent on the state of confidence.
(拙訳)
レッセ・フェールのシステムの下では、雇用の水準はいわゆる信頼感の状況にかなりの程度依存する。もしそれが悪化すれば、民間投資は低下し、その結果として生産と雇用は減少する。・・・このことは資本家に政府の政策に対する強力な間接的支配力を与える。・・・しかし政府が自らの購買によって雇用を増加させるという方法をいったん身に付けてしまうと、その強力な支配装置は効力を失ってしまう。従って、政府が介入を実施するのに必要となる財政赤字は、危険性が高いものだと思われる必要がある。「健全財政」ドクトリンの社会機能は、雇用水準を信頼感の状況に依存させることにある。

従って、「やり方が分かっていさえすれば資本主義経済の政府は完全雇用を維持するという前提は誤り(The assumption that a government will maintain full employment in a capitalist economy if it only knows how to do it is fallacious)」とカレツキは述べたという。


ディローのこのエントリは、中央銀行による金融政策と同様、財政政策も政治やイデオロギーから独立させる必要がある、と訴えたサイモン・レン−ルイスのエントリを受けたものである。レン−ルイスのこの提案はテクノクラシー面の話に思われるが、それ以上の過激な含意がある、とディローは言う。というのは、ゼロ金利下限において政府による聡明な財政政策の追求が当てにできないのは、メディアによる経済的無知の促進と、上記のカレツキが指摘した事象が原因となっているからである。政府が企業の虜となっている以上、「民主的な」政策決定は資本家の利益のために歪められ、公益に資することはない。そのため、レン−ルイスの提案は、政府が意思と勇気さえ有していれば正しいことを実行できる、という素朴な社会民主主義に対するケインジアンからの――マルキシアンからのではなく――挑戦となっている、というのがディローの評価である。

*1:ちなみにディローは本ブログのこのエントリの脚注で紹介したエントリでもほぼ同じ一節を引用している。