いかにしてFRBはトルーマン大統領を打ち負かして独立性を手に入れたか

という記事をFTブログでGavyn Daviesが書いているEconomist's View経由;原題は「How the Fed defeated President Truman to win its independence」)。


以下はその概要。

  • 第二次大戦中、米国人は愛国者の義務という名の下に大量の国債購入を促された。その彼らに損失を与えるのはまずいということで、FRBは短期国債について0.375%、長期国債について2.5%の上限を維持することを約束した。これにより戦費調達のコストが抑えられた。そのためにFRBがマネタイズを行わねばならないことは、状況に鑑みて副次的な問題とされた。
  • 戦後、価格統制が外されるとインフレ率が上昇し、1947-1948年には年率が平均13%に達した。そのためFRBは短期国債への上限を外し、短期金利は1950年に1.125%まで上昇した。しかし財務省は長期国債の2.5%の上限の維持を求めた。トルーマン大統領は第一次大戦後に家族が自由公債で損したことを覚えており、彼の支持者が損することを望まなかった。
  • 1940年代後半にトルーマンは財政を均衡させたが、朝鮮戦争は長期化し、高くつきそうな兆しを見せていた。彼は債券自警団(当時そういったものがいたとして)が共産主義との戦いをさらに面倒なものにすることを大目に見る気分ではなかった。
  • しかし、トーマス・B・マッケーブ議長とマリナー・エクルズ理事率いるFRB金利上限の維持に抵抗した。インフレは20%にならんとしており、彼らは金利の上限維持が、財政赤字拡大に伴い投資家が最後の買い手たるFRB国債を売りつけるという事態を招くことにより、無制限の金融緩和への道を開きかねないことを知悉していた。財政優位と貨幣とインフレの潜在的な関係を認識していた点で、彼らは時代に遥かに先駆けていた。
  • これに対しトルーマンも手加減せず、FOMCを召集して最高司令官としての自らの意思を明確にした。彼は、今や米国は二つの世界大戦やそれ以前の戦争をも凌ぐ史上最大の危機に直面しており、様々な方面で共産主義の脅威と戦わねばならないのに、政府証券への人々の信頼が失われれば、軍事行動ないし戦争によって得ると期待されるものがすべて危殆に瀕する、と述べた。また、マッケーブ議長への書簡では、FRBによる上限規制の撤廃はまさにスターリンが望むことだ、とも書いた。
  • こうして中央銀行史上最大とも言える政治闘争の幕が切って落とされたが、詳細は二人のFRBの歴史家が乾いた筆致で書いたこのレポートを参照されたい。基本的な話は、議会での野党共和党からの支持を幾ばくか得たFRBの断固たる姿勢を覆すほど強固な政治的立場をトルーマンが有していなかった、ということになる。
  • 最終的に財務省FRBは、かの有名な「アコード」に到達した。それによりFRBは、今後の債券市場の買い支え額を2億ドルに限定したが、それは声明発表後わずか3日で費消された。
  • FRBは今や金融政策を自由に設定できるようになったが、政権側も代償を手に入れた。マッケーブ議長は辞任を余儀無くされ、後任にはウィリアム・マチェスニー・マーティンが就いた。彼は財務省の意のままになると思われていた*1
  • しかし、事はそうは進まなかった。トルーマンのチーフエコノミストの言葉を借りれば、マーチンは大統領を「裏切り」、独立した中央銀行家としての道をひたすら追求した。
  • 後年、ニューヨークの路上でマーチン議長がトルーマンにばったり出くわした時、元大統領は一言「裏切り者!」とだけ言ったという。

なお、ざっとぐぐってみたところ、アコードについてネットで読める日本語の文献はこれこれこれがあるので、より詳細を知りたい方はそちらを参照されたい。



ちなみにDaviesはこの記事を、ECBによる国債金利の上限規制を期待しているかに見えるモンティ伊首相らへの警告の意味も込めて書いたという。だが、当時の米国と現在の欧州との間にはインフレ昂進の有無という大きな違いがあることを考えると、教訓の単純な適用は難しいようにも思われる。Davies自身、物価の安定を最優先としたマーチンの姿勢とFRBが負っている二つの責務との矛盾*2を指摘したあるコメンターへの応答に際し、当時はインフレが二桁に達していたことを想起するように促している。


また、もう一つの大きな違いは共通通貨の有無であるが、コメント欄では、イタリアはリラ時代のインフレのリスクプレミアムを債務不履行のリスクプレミアムと引き換えにしただけだけで、実質金利は当時の方が低い、という指摘も見られた(ただ、これに対しては、中央銀行の独立性を称揚するJapanese Bankerを名乗るコメンターが、いや、1990年代後半の実質金利は今よりも高かった、と反論している)。

*1:コメント欄ではFTのジェームズ・マッキントッシュが、FRBとの闘争においてマーチンが政権側の筆頭交渉役だったということを指摘している。また同じくコメント欄でDaviesは、インフレ抑制の決意を表明したマーチンの就任宣誓演説を引用している。

*2:ただしテイラーがここで書いている通り、二つの責務が導入されたのは時代を下った1977年のこと。