コチャラコタ「淡水学派と塩水学派? そんな区分は計算機技術の発達で消滅した」

ミネアポリス連銀総裁のコチャラコタの論考「Modern Macroeconomic Models as Tools for Economic Policy」が評判を呼んでいる(例:マンキューブログ)。内容的には以前紹介した10の考察と重複する部分も多いが、以下に概略をまとめてみる。


コチャラコタはまず、1980年以降に発達した現代のマクロモデルの5つの特徴をまとめている。

  1. 資源制約および予算制約の明確化
    • 家計の予算制約、企業の技術的制約、経済全体への資源の制約。
    • 無から有を作り出すことがないようにする。
       
  2. 個人の選好と企業の目的の明確化
    • 経済変数間の関係(例:金利と投資の関係)が経済の制度変更(例:FRB金利ルール)によって変わる、というのがルーカス批判であった。その批判を回避するためには、資本蓄積の技術や人々の2時点間の消費選好といった、政府の制度変更の影響を受けない、もっと根本的ないし構造的な経済の特性にモデルの基礎を置く必要がある。
       
  3. 企業と家計がフォワード・ルッキングに行動すると仮定
    • 合理的期待形成の導入により、様々な局面を簡明で統一的な形でモデル化できるようになった。
    • 確かに合理的期待形成は非現実的な仮定なので、クリストファー・シムズトーマス・サージェントらはその仮定を緩めようと試みたが、概念上ならびに計算上の困難に直面した。
       
  4. 企業や家計が直面するショックの導入
    • 技術進歩がランダムに成長すると仮定。
       
  5. マクロ経済全体のモデルとすること
    • 言葉による洞察に頼ると、木を見て森を見ない状況に陥りやすい。その欠点を避けるため、モデルは経済全体を描写するものにする。

この5つの要素を兼ね備えたのが、Dynamic Stochastic General Equilibrium (DSGE) マクロモデルに他ならない。ここで、各語は

  • Dynamic   …家計と企業がフォワード・ルッキングであること
  • Stochastic  …ショックの導入
  • General    …経済全体のモデル化
  • Equilibrium  …家計と企業について制約と目的を明示的に導入

をそれぞれ含意する。


次いでコチャラコタは、この1980年以降の現代マクロモデルの到来によって巻き起こった淡水学派と塩水学派の争いについて触れているが、それは学界では既に収束した、と述べている。

The divide between freshwater and saltwater economists lives on in newspaper columns and the blogosphere. (More troubling, it may also live on in the minds of at least some policymakers.) However, the freshwater-saltwater debate has largely vanished in the academe.
(拙訳)
淡水学派と塩水学派の分裂は新聞の論説やブロゴスフィアでは継続中である(もっと悪いことに、少なくとも一部の政策当局者の頭の中でも継続中のようである)。しかしながら、学界においては淡水学派と塩水学派の論争はほぼ消滅した。

この文章は、クルーグマンへの強烈な皮肉とも読める。
コチャラコタは、この収束の原因を以下のように解説する。

My own idiosyncratic view is that the division was a consequence of the limited computing technologies and techniques that were available in the 1980s. To solve a generic macro model, a vast array of time- and state-dependent quantities and prices must be computed. These quantities and prices interact in potentially complex ways, and so the problem can be quite daunting.

However, this complicated interaction simplifies greatly if the model is such that its implied quantities maximize a measure of social welfare. Given the primitive state of computational tools, most researchers could only solve models of this kind. But—almost coincidentally—in these models, all government interventions (including all forms of stabilization policy) are undesirable.

With the advent of better computers, better theory, and better programming, it is possible to solve a much wider class of modern macro models. As a result, the freshwater-saltwater divide has disappeared. Both camps have won (and I guess lost). On the one hand, the freshwater camp won in terms of its modeling methodology. Substantively, too, there is a general recognition that some nontrivial fraction of aggregate fluctuations is actually efficient in nature.

On the other hand, the saltwater camp has also won, because it is generally agreed that some forms of stabilization policy are useful. As I will show, though, these stabilization policies take a different form from that implied by the older models (from the 1960s and 1970s).
(拙訳)
私の独自の解釈は、両派の分裂は、1980年代に利用可能だった計算技術と技法の限界によって生じた、というものである。一般的なマクロモデルを解くためには、時間ならびに状態に依存する数量や価格という変数を大量に計算する必要がある。そのような数量や価格は複雑に絡み合っている可能性が高く、問題は非常に解きづらいものとなる。
しかしながら、そのような複雑な相互作用は、モデルに含まれる数量が社会厚生のある種の尺度を最大化するものであれば、大幅に簡略化される。計算ツールがまだ未熟だった段階においては、研究者が解けるのはそうしたモデルに概ね限られていた。ところが、ほぼ偶然にも、そうしたモデルからは、政府の介入(あらゆる安定化策を含む)はすべて望ましくない、という結論が導き出された。
コンピュータや理論やプログラミングの発展により、解析可能な現代マクロモデルの幅が広がった。その結果、淡水学派と塩水学派の分裂は消滅した。両派は共に勝利した(かつ、共に敗北したと言える)。淡水学派はモデル手法の面で勝利を収めた。また、内容面でも、総体的な変動のかなりの部分は本質的に実は効率的なものなのだ、ということが広く認識されるようになった。
一方、塩水学派もまた勝利を収めた。というのは、ある種の安定化策は有用だという一般的な合意が得られたからである。ただし、後述するように*1、そうした安定化策は(1960年代や1970年代の)古いマクロモデルから導き出されるものとは違った形を取っている。


コチャラコタは、現代マクロモデルがより現実に近づいた成功例として、以下の2つを挙げる。

  • ニューケインジアン総合(The New Keynesian Synthesis):価格の粘着性の取り込み
  • 金融市場の摩擦の取り込み

後者については、今回の不況を例に取って、以下のように解説している。

During the four quarters from June 2008 through June 2009, per capita gross domestic product in the United States fell by roughly 4 percent. In a model with no asset market frictions, all people share this proportionate loss evenly and all lose two weeks’ pay.
・・・
However, the models with asset market frictions (combined with the right kind of measurement from microeconomic data) make clear why the above analysis is incomplete. During downturns, the loss of income is not spread evenly across all households, because some people lose their jobs and others don’t. Because of financial market frictions, the insurance against these outcomes is far from perfect (despite the presence of government-provided unemployment insurance). As a result, the fall in GDP from June 2008 to June 2009 does not represent a 4 percent loss of income for everyone. Instead, the aggregate downturn confronts many people with a disturbing game of chance that offers them some probability of losing an enormous amount of income (as much as 50 percent or more). It is this extra risk that makes aggregate downturns so troubling to people, not the average loss.

This way of thinking about recessions changes one’s views about the appropriate policy responses. Good social insurance (like extended unemployment benefits) becomes essential. Using GDP growth rates as a way to measure recession or recovery seems strained. Instead, unemployment rates become a useful (albeit imperfect) way to measure the concentration of aggregate shocks.
(拙訳)
2008年6月から2009年6月までの4四半期の間に、米国の一人当たりGDPは約4%低下した。資産市場の摩擦が無いモデルでは、この損失をすべての人が等しく分かち合い、2週間分の賃金カットを蒙ることになる。
・・・
しかし、資産市場の摩擦があるモデルでは、(ミクロ経済データの正しい入力によって)上記の分析が不完全であることを明確化する。景気下降期には、すべての家計で所得の低下が等しく分担されるわけではない。というのは、職を失う人もいれば、そうでない人もいるからである。金融市場の摩擦のために、そうした状況に対する保険は、(政府の失業保険の存在にも関わらず)完全とは程遠いものになっている。結果として、2008年6月から2009年6月までのGDPの低下は、皆の収入が4%低下することを意味しない。総体的な経済の下降は、多くの人にとって、ある確率で所得のかなりの割合(50%ないしそれ以上)を失うという気の滅入るサイコロゲームとなる。総体的な経済の下降が人々にとって問題となるのはこの余計なリスクのためであり、平均的な損失のためではない。
景気後退についてこのように考えれば、適切な政策対応についての見方も変わってくる。良い社会保険(たとえば失業給付の延長)が重要となる。GDP成長率を景気後退や回復の尺度として使うのは問題が多いように思われる。代わりに、失業率が、総体的なショックの集中度合いを測るのに(不完全とは言え)有用な尺度となる。


一方で、現代マクロモデルに依然として存在している欠点として、以下を挙げている。

  • 継ぎはぎ的なアプローチという側面が否めない
    • モデル構築者たちは一度に一つの摩擦しか取り込まない。価格の摩擦を取り込んだモデルには金融市場の摩擦が取り込まれないし、どちらかの摩擦を取り入れたモデルには労働市場の摩擦は取り込まれない*2
    • これも現時点でのコンピュータの計算能力の限界のためと言える。
  • 金融ならびに銀行部門の欠落
    • 上述の通り金融市場の摩擦は導入されたものの、モデル上で家計や企業が取引できる金融商品は、単一市場における1〜2種類の商品に限られる。細分化された市場で多種多様の金融商品が取引される現実とは程遠い。
    • こうしたことが捨象されてきたのは、そのモデル化の困難性のほか、今回の不況以前には戦後の米国の景気循環を分析する上でさほど必要と思われなかったため(ただし、日本などの他国では必要だったかもしれない*3)。
  • 外生的ショックの非現実性*4
    • マクロ経済学者はこれまで選好や技術といったファンダメンタルズへのショックばかりに目を向けてきたが、信用市場危機や資産市場バブルで見られるような、他人の行動に関する自己実現的な予測について目を向けるべき時かもしれない。


なお、DSGEモデルの欠点としては、これまではデータへの統計的な当てはまりの悪さも指摘されており、それが政策当局への普及を阻んできた最大の原因となった、とコチャラコタは考察している*5。しかし、たとえば2003年にFrank Smets and Raf Woutersは、新しいベイジアン推計手法を用いて、ニューケインジアンモデルが欧州のデータに良く当てはまることを実証した。そうした研究によって当てはまりの問題は解消し、近年では政策分析や予測のためにニューケインジアンモデルが各国中央銀行で相次いで採用されている*6
とは言え、マクロ経済学者と政策当局者の間のコミュニケーションにはまだ問題が多く残っている。ミネアポリス連銀総裁として、そうしたコミュニケーション不足の解消に尽力していきたい、という決意表明でコチャラコタはこの論説を締めくくっている。

*1:この「後述」については池尾和人氏のツイートで取り上げられている。

*2:cf. ここで紹介したピーター・ドーマンの現代経済理論批判の第1項。

*3:穿った見方をすれば、この注釈は日本の経済学者への嫌味(「何でお前らまで一緒になってモデル化をサボってきたんだ」)と受け取れなくもない。

*4:cf. デロングの批判

*5:ただし、コチャラコタ自身はそれを欠点だとは見做していない。というのは、アウト・オブ・サンプルのモデルシミュレーションを行う場合には、過度に過去のデータに適合したモデルは却ってパフォーマンスが悪い、というのが彼の研究から導き出された見解だからである。

*6:これはまさにBuiterが批判した傾向である。