鴨の群れが経済学について教えてくれること

昨日エントリでは、デロングないしサイモン・レン−ルイスのエントリを受けたクルーグマンのミクロ的基礎付けに関する議論を紹介したが、今日はThe Fiscal TimesでのMark Thomaの議論を紹介してみる。
彼はまず、ミクロ的基礎付けの歴史を以下のように振り返る。

  • 1970年代の手法の革命が起きる前のマクロ経済モデルは、GDPや消費、投資といったマクロ変数同士の関係に焦点を当てていた。総消費が家計の総所得に依存するという方程式がその典型。しかし、そうした方程式が、家計の効用最大化や企業の利益最大化行動と整合的である保証はなかった。
  • 例えば、そうしたモデルは賃金が粘着的であることをしばしば仮定し、それによって労働の供給過剰が生じるとした。それによって失業は説明できたが、なぜ皆の状況が改善するはずの需要が供給と一致する均衡点に移行しないのか、という問題が残った。
  • 粘着的な賃金を最適化行動と整合的に説明する方法は幾つかあるが、そのためには個々の企業や家計のレベルでモデル化を行う必要があった。それこそが1970年代の手法の革命だった。
  • そうした「ミクロ的基礎付け」アプローチは、総量ベースの方程式が合理的な最大化行動と整合しないという問題は解決したが、独自の問題を引き起こした。その一例が、マクロ経済的な関係を得るために個々の家計や企業を足し合わせた際に起こる種々の問題で、中には克服が困難もしくは不可能な問題もあった。
  • その問題を迂回する手法が「代表的主体」アプローチ。それは、一つの平均的ないし代表的な家計もしくは企業をモデル化し、それが平均的には全体の行動を捉えている、とするもの。
  • ただ、そうした代表的主体アプローチは、金融市場の行動を研究するには適していなかった。一つの代表的家計の中では、予測や将来の経済状態が違うことに起因する自分自身との株式や債券の取引(例:株価が下がると考える人が株価が上がると考える人に株式を売る)が生じようが無かったため。
  • 金融危機が起こるまでは、マクロ経済学者はそれを大した問題だとは考えていなかった。現代の金融市場は、大恐慌を引き起こしたような金融擾乱とは無縁だと考えていたため。金融市場をモデルに含めることは、徒に問題を複雑化させる不要なことと考えられていた。
  • 大不況はその考えが間違いであることを明らかにした。危機後にはモデルに金融部門を含めることが課題となり、幾ばくかの進展も見られたが、まだ先は長く、既存のモデルを修繕してこの問題を克服できるかどうかも不明。もし克服できなければ、現在の枠組みを捨てて、より適切な新たな枠組みを探求すべき、ということになる。


そして、探求すべき新たな枠組みを以下のように整理する。

  • 昔ながらの総量ベースのモデルは、前回記事*1で触れたように危機でのパフォーマンスが優れており、マクロ経済予測により適しているように見える。しかし、合理的な最大化行動との整合性という問題は依然として残る。ミクロ的基礎付けを行うアプローチはその問題を回避するが、金融市場を始めとして、主体間の相互作用を伴う事象をモデルに織り込むのが非常に困難。
  • 鴨の比喩がこの点を理解する助けになるだろう。鴨の群れの編隊飛行を理解しようとしている時は、一羽の代表的な鴨をモデル化するだけでは不十分である。モデル構築者は、鴨が編隊中の位置を維持する規則、および、先頭の鴨が交代する規則も理解しなくてはならない。それぞれの鴨は周囲の状況に反応するが、「主体同士の相互作用」をモデルで捉えるのは一般に非常に難しい。しかし、研究者全員の興味が、どこに向かい飛行時間はどのくらいが掛かるのか、といった鴨の群れとしての行動にあるのならば、全体の速度と方向に影響する要因をモデル化するだけで事足りる。
  • その手の予測では、ミクロ的基礎付けアプローチから生じる厄介な問題は避けられる。しかし、鴨がいかに編隊を維持し、先頭に立つ負荷をいかに群れの中で分散するか、あるいは規則のせいでいかに群れが進路から逸れるか、といった問題については、「ミクロ的基礎付け」が必要になる。
  • ということで、採るべきアプローチは研究者が問う質問次第、ということになる。ある種の質問に対しては、現代モデルの使い手からの近年の批判にも関わらず、総量ベースのアプローチが最適、ということになる。それが簡単で早くて正確な回答を提供してくれるならば、そうしたアプローチの採用を退歩と考えるべきではない。使うべき「正しい」モデルの決定は二者択一の問題ではなく、マクロ経済学者は、マクロ経済を理解する能力や、経済に問題が生じたときに政策提言を行う能力を向上させる際に、どちらのアプローチも利用できるようにしておくべきである。

*1:cf. ここ