デロングのEquitable Growthエントリをきっかけとして、マクロ経済学のミクロ的基礎付けに関する議論が再び起こった(この問題に関するエコノブロゴスフィアでの議論はこれまでも何度も起きている。例:ここ、ここ)。デロングのエントリの主旨は以前ここで紹介したものに近いが、それにStephen Williamsonやサイモン・レン−ルイスが反応し、そのレン−ルイスのエントリにさらにMark Thomaやクルーグマンが反応した。
クルーグマンは、自らの主要業績である新貿易理論(今や古い新貿易理論と呼ぶ人もいるそうだが)におけるミクロ的基礎付けを回想し、そこでは現実性は問題ではなかったと断りつつ、そうしたミクロ的基礎付けを行った動機として以下の3点を挙げている。
- 経済学そのものの社会学に則って戦うため
- 国際貿易理論の文化においては、エレガントなモデルを基礎から作り上げることを重視していた。新貿易理論において貿易や特化の原因となる収穫逓増を受け入れてもらうためには、それ相応の形式に整える必要があった。説得的だが定式化されていない主張だけでは十分ではなかった。
- モデル構築の過程は考えを明確化するのに役立つ
- ミクロ的基礎付けがミクロ的基礎付けにつながるという循環的な意味ではなく、モデルを作るまでは収穫逓増が貿易にとってどのような意味があるかについて人々は良く分かっていなかった、という意味で。
- 1980年前後、自分は貿易における収穫逓増に関するセミナーを数多くこなしたが、そこでは以下のような主張をする貿易理論家がいた:
- 収穫逓増は、収穫逓増的な財を大国が輸出する比較優位をもたらす限りにおいて意味がある
- 収穫逓増は、誰が収穫逓増的な財を輸出する点で優位に立つかについての闘争を必然的にもたらす
- モデルによって描かれた構図は、それとはまったく違っていた。そこでは、世界貿易の大枠は従来型の比較優位で決まるが、追加的に、収穫逓増によっておそらくはランダムに定まる特化が重なる。
- また、この追加的な特化は、収穫逓増的な財を生産している国だけではなく、皆にとって利益となるのが普通である。というのは、規模の経済による利益は低価格という形で表われるからである。
- 今ではこうした話を平易な言葉で伝えることができるが、1980年当時にはそうした話は存在していなかった。
- モデルによって、それまで認識されていなかったことが明らかになる
- クルーグマンの最も影響力のある初期の論文では、規模の経済による特化を論じた後に、巨大な国内需要が輸出を促すという「自国市場効果」の可能性を論じた。それまでそうした考えは、提唱されていたとしても混乱した概念に過ぎなかった。
従って、ミクロ的基礎付けに乗り出したことは意味があった、とクルーグマンは振り返る。ただし、新貿易理論の理論家は、知的水平線を広げるためにモデルを用いたのであり、それを縮小するために用いることはなかった、と彼は言う。その上で彼はマクロ経済学のミクロ的基礎付けに矛先を向け、それらは逆の目的、即ち水平線を閉じ、不都合な現実を締め出すために使われてきたのではないか、と批判する。すべては使い方次第であり、直観を膨らませるためにモデルを使うのは大いに称揚すべきだが、議論を封じるためにミクロ的基礎付け純粋主義を追求するのは宜しくない、と述べて彼はエントリを締め括っている。