というのが、昨日紹介したreason.comのWilliam D. Eggers & John O'Learyの1/13記事のタイトルである(「Five Reasons Why Libertarians Shouldn't Hate Government」)。副題が「Plus, Five Big Projects That Went Well and Five That Were Disasters」で、昨日紹介した政府の成功5例と失敗5例は、むしろ記事のおまけであった。
記事の本題の表題5項目について、Eggers & O'Learyは以下のように述べている。
- 悪い政府は、さらに大きな悪い政府をもたらす。
- 今日、政府が良いことをすると信じている米国人は23%しかいない。これは一見、「大きな政府」に反対する人を力づける結果に見える。
- しかし、最近のRegulation and Distrustという研究によると、政府の行政効率が悪いほど、政府の介入を求める市民の声が大きくなるとのことである。これは、政府や大企業といった大組織に対する人々の不信感が高いほど、規制や政府介入を求める要求が高まる――たとえ政府が無能で完全に腐敗していたとしても――という社会の傾向を反映しているのではないか、とのことである。
- 政府を縮小するためには、政府を好きにならなくてはならない。
- リベラル派は政府を信じているので、政府ないしそれに準じた組織で働くことが多い。その結果、彼らは官僚組織を動かす方法に通じるようになる。
- 一方、保守派やリバタリアンは私企業に属していることが多い。彼らは政府が好きではなく、単なる必要悪と見なしている。従って、政府から距離を置くことを好み、行政組織の綾に通じることもない。
- そのため、保守派やリバタリアンが権力を持っても、複雑な公的部門をうまく動かすことができない。その結果、政府を縮小するという目的を達成することもできない。実際、レーガンのグレース委員会から1995年の共和党議会による政府の機能停止に至るまで、失敗の連続だった。
- 小さな政府を求める者が公的部門運営のノウハウ――実世界で機能する政策の策定方法や巨大な公的事業の執行方法――をマスターするまでは、こうした失敗は続くだろう。
- 市場ベースの改革は自動実行されるものではない。
- 政府の機能制限に熱心な者は、「大きな政府」志向の政策の欠点を論う。しかし、市場志向の政策も、きちんとした形で導入されなければ、やはり失敗に終わる。
- 航空とトラック輸送の規制緩和は、1970年代に政府が行なった最大かつ最良の政策だった。政策の設計も執行も優れており、選択の自由と競争の恩恵を示した。消費者にとっては何十億という節約になった。
- 1990年代後半、自由市場志向のシンクタンクは、昔ながらの独占市場である電力業界に競争を持ち込めば費用が削減できると主張した。そしてカリフォルニア州が実際に電力の規制緩和を実施した。
- その結果何が起きたか? 新法施行後の数年のうちに、価格は高騰し、停電が頻発し、グレイ・デービス知事がリコールされた。消費者にとっては何十億という損失になった。
- 何が間違っていたのか? 端的に言えば、エンロンのようなエネルギー会社が法制度の不備を突き、仕組みを食い物にした。電力業界でも競争は有効かもしれないが、カリフォルニアの拙い「規制緩和」は、悲惨な結果をもたらした。
- 法や計画の設計ならびに導入の過程をきちんと評価しなければ、独占から市場への移行が失敗するリスクは高い。
- 政府叩きは、実際に自分の考えを支持してほしい人を疎遠にする。
- リバタリアンは、政治家は腐敗しており、官僚は怠け者で、公的組合はならず者の集まりだと言う。また、彼らによれば、政府というのはそもそもアイン・ランドが描くような悪漢の吹き溜まりで、気高いジョン・ゴールトのような自由市場主義者から、人生、金、自由を余すところ無く吸い取ろうと企んでいる。
- しかし、そうした見方は何百万という米国人の日々の経験とまるで相容れないので、リバタリアンは平均的な市民から相手にされない。政府が決してまともに機能しないという歪んだ世界観は、馬鹿げている。
- 絶え間ない政府叩きは憂さ晴らしになるかもしれないが、警官、消防士、教師、ソーシャルワーカーを知り合いや恋人に持つ人、失業給付を貰ったことのある人、NASAの有人月着陸を見たことのある人を疎遠にする。
- 「政府は決して機能しない」という哲学は、短期的に支持基盤層に浸透するかもしれないが、幅広い選挙基盤の構築や実際の政権獲得に向けた効果的な戦略とは言えない。有権者は、政府嫌いの人々に市庁舎の鍵を託そうとは思わない。
- 自分のことを配慮していると思わない限り、相手の思想を気にする人はいない。
なお、この5項目に対し、Econlogのブライアン・キャプランが以下のように逐一反論している。
- ここで人々はシニシズムに陥っている。そのシニシズムからは、本来、反政府主義が結論として導き出されるはずなので、学者はその帰結を一般に教示すべき。
- 確かにそのようなパラドックスはあるかもしれない。最もましな解決策は、各人がリバタリアンとしての良心に従って行動することだ。穏健なリバタリアンならば、自己嫌悪に陥ることなく政府をましなものにできるかもしれない。筋金入りのリバタリアンは、あくまでも政府から離れて、穏健なリバタリアンの監視役となると同時に、相対的に彼らをまともに見せるという役割を果たすべき。
- これは国有財産の私有化や部分的な規制緩和には当てはまるかもしれないが、全般的には正しくない。単純な廃止が往々にして最良の結果をもたらす。価格管理の撤廃や腎臓売買の合法化には、複雑な設計も導入も必要ない。ここでも、穏健なリバタリアンと急進的リバタリアンの役割分担が効果を発揮しそうだ。
- 問題のすり替え。たとえば小麦の栽培自体には問題はないので、政府の食料政策を批判したとしても、小麦農家への個人攻撃になることはない。一方、ドラッグの禁止や移民制限は人類に対する犯罪なので、それに携わるものはやはり犯罪者である。奴隷制やナチスを想起せよ。ただ、残念ながら、こうした立場は真実に即しているものの、一般の人々には受け入れ難いようだ。
- 政府が何をしようとしているかによる。キャプラン自身のような州立大学の教授が、自分の仕事において経費節減の方法を見い出したならば、それは実行すべき。反面、麻薬使用者や違法移民の摘発に当たっては、むしろ無能であることが望ましい。いずれにせよ、Eggers & O'Learyはリバタリアンの比較優位というものを無視している。政府機能を改善しようとする非リバタリアンはごまんといるが、政府を縮小しようとするリバタリアンは数千人程度だ。リバタリアンは後者の仕事に専念すべき。というのは、我々がそうしなければ、誰もそうしないからだ。