クルーグマンが経済論争に関して面白いことを書いている。以下はその拙訳。
ゴドウィンの法則の拡張提案
ゴドウィンの法則――ネットでの議論がある程度長引くと、相手をヒトラーに喩える輩が必ず出てくる――は、もし実際に相手をナチに喩えることに走ったら、議論に負けたことになり、もはやまともに相手にされなくことを意味する、と解釈されることが多い。私はその解釈に全面的に同意する。(それは共和党の重要人物の意見をもはや真剣に受け止めるべきではないことを意味するのか? 答えはイエスだ)
しかし、倫理的にナチの喩えと同等の喩えは数多く存在し、それらはやはり同じ扱いを受けるべきである。私がここで提案したいのは、
- ある分野での一層の政府の行動を求める声――雇用創出、医療改革、その他諸々――に対し、ソ連の例を引き合いに出して反応する人
もしくは- 適度なインフレないしドル安が受け入れ可能という提案に対し、ジンバブエの例を引き合いに出して反応する人
もしくは- 予測された債務水準が、高くはあっても、先進国が過去に成功裡に対処できた範囲に収まっていることを示すと、アルゼンチンの例を引き合いに出して反応する人
は、迅速に外の暗黒*1につまみ出すことである。
そうすべきなのだ。
Proposed extensions of Godwin's Law - The New York Times
この話は、日本の経済論争についてもそのまま当てはまるだろう*2。
ちなみに、ある種の人たちの議論のやり方を見ていると、小生は時折り国民的小説の下記の一節を思い出す。
迷亭もここにおいてとうてい済度(さいど)すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭を凹(へこ)ましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢(とんちんかん)な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥(はる)かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目(めんぼく)を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑(けいべつ)して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
夏目漱石 吾輩は猫である
ただし、ここで漱石が見落としているのは、「嘘も百回言えば真実となる」という言葉にある通り、強情を張り通せば、それなりに知性の高い人も、あるいは彼の言うことは正しいのかも、と思わせてしまう場合があることである。残念ながら、それこそナチスからオウム真理教まで、そうした例は歴史上枚挙に暇がない。実際、最近の経済論争でもそうした傾向が見られたように思われる。
[2010/2/16修正]
クルーグマンが共和党に触れた括弧内の文章の訳で「受け止めること」と誤記していたのを「受け止めるべきではないこと」に修正。