コント:ポール君とグレッグ君(2014年第13弾)

マンキューとクルーグマンが、ノアピニオン氏のブルームバーグ論説に対し正反対の反応を示した。テーマは議論における礼儀正しさで、その点では第12弾(や第1弾)の続編とも言える。

グレッグ君
ノア・スミスが良いこと言った
 
我々の議論の大部分は、オバマケアや貧困撲滅計画や金融規制など、道理を弁えた人同士の意見が食い違う可能性があり、かつ実際に食い違っている問題に関するものだ。もしその議論の場で無礼に振る舞い、論争相手の議論が拙劣だという理由だけで馬鹿とか嘘つきとかもっとひどい悪態をつくならば、大体においてあなたは自信過剰に陥っている。自分が間違っているはずがないので、論争相手を罵倒して一般の人々から得点を上げることが公共の利益になる、と前提しているわけだ。そうしたやり方をすれば、論争から自分自身が何かを学ぶ可能性はゼロとなる。
ポール君
ノア・スミスが、意見の異なる相手に対し無作法に振る舞ってはならない、相手が正しい可能性もあるのだから、と書いている。その通りだ。例えばオーストリア学派経済学を脳の寄生虫に喩える*1ことに一体どんなメリットがあるというのだ? あれ、待てよ…。
実際のところ、脳の寄生虫を持ち出した時にノアは正しいことをしていて、礼儀正しさを持ち出した時点で誤った方向に道を踏み外したのだと思う。ということで、脳の寄生虫の比喩を正当化してみよう。
第一に、ビビッドなイメージを与える表現は、正しく使えば、重要な目的を果たす。ジョン・メイナード・ケインズは、「考えない人の思考を相手にするのだから、言葉は少し乱暴であるべき」と言った。「拡張的緊縮策の主張については疑問を感じている。その主張は、問題含みの実証結果や赫赫云々に依拠している」と言うこともできる。あるいは、緊縮主義者は信認の妖精を信じている、と非難することもできる。本当に悪い経済学ドクトリンを攻撃する場合、どちらがより効果的だろうか?
また、礼儀正しさは敬意の意思表示である。量的緩和に関して現在進行中のような誠実な経済学的論議では、是が非とも礼儀正しくあるべきだ。しかしノアがオーストリア学派を嘲ったのは、彼らが誠実な議論をしていないと感じたためであり、それは正当化されるとノアは考えた(そして実際に正当化される)。僕の経験から言えば、礼儀正しさの要求は、必ずと言って良いほどそもそもそうした敬意を払われる権利を放棄した人からなされるものなのだ。

*1:ここでクルーグマンはノアピニオン氏の以前のブルームバーグ論説にリンクしているが、そこでノアピニオン氏は、「スタートレックII カーンの逆襲」でカーンが人を操るために相手の脳に侵入させた寄生虫オーストリア学派経済学を喩えている。