クリンゴノミクス

…といっても、クリンゴン帝国の経済政策の話ではなく、Econlogのアーノルド・クリングが最近主張している経済学のことである。これが最近の米国の経済ブログ界で意外に話題になっている(昨日はついにクルーグマン参戦した)。


クリング自身はこの考えを「再計算(Recalculation)」と呼んでいる。彼が最初にその考えを打ち出したのは、Econlogの8/10エントリと思われる。以下はその拙訳。


水圧式マクロ経済学に代わるもの

主流経済学は「水圧式」である。そこには「総需要」と呼ばれるものがあり、財政や金融緩和を注ぎ込んで調整する*1


私はこのマクロ経済学の概念すべてを否定したい。その代わり、経済学者に、失業を、経済計算問題として考えてもらいたい。


[このエントリを読む進む前に、Mark Thomaによって発掘されたロバート・ソロー(私の学位論文の指導教官)の5年前の論説を読んでみるのも良いかもしれない。ソローがそこで強調した「異質性」について、私は以下のエントリで、ソローが考えていたよりも遥かに先に推し進めている]


「計画経済における経済計算問題」という論文で、ブルーノ・レオーニは次のように書いている。

その上、費用と結果の比較は、消費者がしばしば直ちに行なうものであるが、企業にとっては不利なものとなるだろう。というのは、ほとんどの場合、生産者にとっては時間位相的な不一致が存在するからである。一般に、彼らはまず生産費用を支払い、販売した商品からの収入を後から現金化する。その販売価格は、費用を支払った時点に知られていた価格と違っていて、より利益が少ないものになっているということがあり得る。


レオーニも関わった「社会主義経済計算論争」は、計画者が市場からの情報が無い中で犯しがちな誤りに関するものである。しかし、上記に引用した段落は、市場によって、計画経済における誤りから免れられるわけではないことを示している。企業もまた誤りを犯す。建設会社が建てた住宅やショッピングモールは不要なものかもしれない。個人が得た学位は、十分な需要が無い分野のものかもしれない。労働者が経験を積んだ企業や産業がその後衰退し、その労働者の技術の市場価値がほとんど無くなってしまうかもしれない。


オーストリア学派は計画の誤りを強調したが、私から見ると、彼らは、中央銀行の操作する金利に応じて企業が生産の資本集約度を選択する際の誤りにのみ焦点を当てていたように思われる。私に言わせれば、それ以外のあらゆる種類の誤りが発生し得るものであり、理論の中で考慮されねばならない。


フィッシャー・ブラックはまさにそうした計画の誤りを考えていたが、それにCAPM理論を接ぎ木してしまい、人々は個別的なリスクを分散化できるとしてしまった。皆が一緒にうまくやるか、一緒に駄目になるか、というわけだ。(政府で働く人のような)ある人々は「低ベータ」資産を選択し、景気循環の中でも比較的経済環境の変化を小さく留める。(株価指数ファンドを証拠金取引で買うような)別の人々は、「高ベータ」資産を選択し、経済環境が悪化すると振り回されることになる。


CAPMがリスクのそこそこの近似になっているとすら私は思わない。人々は多くの個別的なリスクを取っている、と思う。特に、大抵の人にとって最大の資産である人的資本の面ではそうだ。


過去18ヶ月の間に、著しく多くの人々の計画が狂った。彼らは教育や職業の選択を誤ったと考えている。それらの誤りを修正するには長い時間を要する。多くの再計算が必要になるが、それは非常に困難な課題だ。


財政や金融の政策が、この計算問題を解決できるとは思わない。それらができるのは、せいぜい中央計画者のミスを個人のミスに置き換えるくらいだろう。

…乱暴な比喩を使うと、現在の経済状況は、EXCELが自動再計算を実行して、CPUやメモリを消費し、ステータスバーにプログレスバーが表示されているような状況、ということか。

*1:[10/9追記]ここでクリングが「水圧式」という言葉でイメージし(かつ批判し)ているのは、財政・金融政策がパスカルの原理よろしく経済の隅々まで均霑するということかと思われる。