我が孫たちの日本語の可能性

分裂勘違い氏のこのエントリを読んで、ここで紹介したケインズの小論を思い出さざるを得なかった。これほど対照的な未来予測はないだろう。


ケインズの予測した未来では、技術の発達によって人々は働く必要がなくなり、暇を持て余すようになる。労働は習慣的に週15時間ほど行なうだけになり、金儲けのために働く人は一種の社会的病質者と見做される。人々は、その時その時を楽しんで生きることに価値を見出し、何らかの目的のためにあくせくすることはなくなる。経済的問題の解決は、歯医者が歯を治すのと同様、単なる専門家の技能の一つになる。


一方、分裂勘違い氏の描く未来(正確には近未来)では、技術の発達により仕事が無くなることはない。むしろ、要求される仕事がますます高度化されるため、人々は多くの時間を技術の学習に費やさざるを得くなる。そのため、そうした仕事に役に立たない芸術――就中、近代日本文学――は等閑視されるのが当たり前になる。英語は単なる専門家の技能の一つではなく、一定水準以上の仕事をする人々にとっては修得が必須となる。


今の現実に目を向けてみると、分裂勘違い氏の言うように日本文化がなくなってしまう、ないし英語文化に包摂されてしまうかどうかはともかく、より多くの人々が英語やらITやら金融やらの知識を身に付けることに勤しみ、日本近代文学などの一昔前の芸術が段々忘れられていく、という傾向は当面変わりそうも無い。ケインズが百年近く前に今頃実現しているだろう、と予測した未来は、見果てぬ夢だった、ということになりそうだ。


だが、良く考えてみると、こうした対立軸こそは、日本近代文学が取り組んできた大きなテーマの一つなのである。例えば漱石は、一方で急速な近代化・欧米化により神経症に悩む日本人を描きながら、もう一方では審美主義に耽溺する高等遊民を一つの理想として描いた。
そう考えると、分裂勘違い氏の提示した未来に突き進むべきか、あるいはケインズの提示した理想郷に至る道は無いのか、という点に関しより深く考えるためには、皮肉にも日本近代文学をもう一度きちんと読み直したほうが良いのかもしれない。


これは、逆に言えば、現在の日本文学が、そうした問題について読むに値する物語を提示できていないことを意味するのかもしれない。ITを初めとする現代工学および現代科学を文化の一つとして真摯に受け止め、その急速な発達の中で生きる人間の在り方や苦悩を描く、ということが今の日本の作家にできないため、蟹工船が時ならぬベストセラーになったりするのだろう。

特に、近年の有名作家の発言――数学の発展においてフランスの果たした重要な役割に対する明らかな無知を曝け出した発言(ガロアという文学的とも言える劇的な生涯を送った天才数学者の母国語を貶めるその蒙昧!)や、群論の出発点とも言える二次方程式の解法の重要性についての無理解を曝け出した発言(自分が六十余年必要なかったから、という理由で一国の科学教育に大いに影響ある決定を躊躇い無くしてしまうその傲慢!)――を耳にすると、むしろ今の彼らは、文化としての科学を否定ないし破壊する側に回っているのではないか、とすら思えてくる。