宥和すべき時、罰すべき時:ヒトラー、プーチン、ハマス

というNBER論文が上がっている(H/T Mostly Economicsungated版へのリンクがある著者の一人のページ)。原題は「When to Appease and When to Punish: Hitler, Putin, and Hamas」で、著者はDavid K. Levine(ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ)、Lee E. Ohanian(UCLA)。
以下はその要旨。

Much has been written about deterrence, the process of committing to punish an adversary to prevent an attack. But in sufficiently rich environments where attacks evolve over time, formulating a strategy involves not only deterrence but also appeasement, the less costly process of not responding to an attack. This paper develops a model that integrates these two processes to analyze the equilibrium time paths of attacks, punishment, and appeasement. We study an environment in which a small attack is launched and can be followed by a larger attack. There are pooling and separating equilibria. The pooling equilibrium turns the common intuition that appeasement is a sign of weakness, inviting subsequent attacks, on its head, because appeasement is a sign of strength in the pooling case. In contrast, the separating equilibrium captures the common intuition that appeasement is a sign of weakness, but only because deterrence in this equilibrium fails. We interpret several episodes of aggression, appeasement, and deterrence: Neville Chamberlain's responses to Hitler, Putin's invasion of Ukraine, Israel's response to Hamas, Turkey's invasion of Cyprus, and Serbia's attacks in Kosovo.
(拙訳)
敵の攻撃を防止するために懲罰を約束するという手順である抑止については多くのことが書かれてきた。しかし攻撃が時間とともに進化する、パラメータが十分に多い環境で戦略を策定する際には、抑止だけではなく、攻撃に反応しないという、より安価な手順である宥和も選択肢となる。本稿はこの2つの手順を統合するモデルを構築し、攻撃、懲罰、および宥和の均衡時間経路を分析する。小規模の攻撃が実行され、大規模な攻撃が後に続く可能性のある環境を我々は研究する。そこでは、一元的ならびに分離の均衡が存在する。一元的均衡は、宥和は弱さの表れであり、後続の攻撃を招く、という一般的な直観を逆転させる。というのは、一元的の場合においては宥和は強さの表れであるからである。一方、分離均衡は、宥和は弱さの表れであるという一般的な直観に沿う形になるが、それは、この均衡では抑止が失敗することだけによる。我々は、攻勢、宥和、抑止の幾つかの出来事を解釈する。即ち、ネヴィル・チェンバレンヒトラーへの対応、プーチンウクライナ侵攻、イスラエルハマスへの対応、トルコのキプロス侵攻、セルビアコソボ攻撃である。

モデルの時間経路は2期で、ペイオフと懲罰は以下の通り。

挑戦者ペイオフ 被挑戦者ペイオフ 被挑戦者から挑戦者への懲罰 被挑戦者にとっての懲罰のコスト
予備的攻撃(probative attack) a -1 P~1 ψkP~1
本攻撃(primary attack) 1 -c P~2 ψkP~2

ここでkは被挑戦者のタイプで、w(弱者)もしくはs(強者)であり、ψs≦ψwである。即ち、強者の方が弱者よりも懲罰のコストが低い。強者である確率μは公開情報である。
懲罰スキームP1、P2は予めアナウンスされているが、取り消すこともある(従って表中のP~1、P~2は確率変数)。取り消す場合には効用コストRが掛かる。
挑戦者は本攻撃を中止しようとすることもあるが、本攻撃を中止する試みが成功する確率は1-λである。本攻撃の中止に失敗して攻撃が続行された場合には、挑戦者はペイオフを得られない*1
モデルではa < λ/(1ーλ) が仮定されており、予備的攻撃のペイオフが挑戦者にとってあまり大きなものとなることはない。その場合、挑戦者が予備的攻撃だけを行って本攻撃は絶対に行わない、という均衡は存在しないことが証明される(命題1*2)。

なお、ここまでの話の挑戦者は通常型(normal type)の挑戦者で、それ以外に計画型(committed type)の挑戦者もいる。挑戦者が計画型である確率πは公開情報である。計画型は予備的攻撃を行った後、本攻撃の中止を試みる。そのため、計画型は、本攻撃を実際に行わない正直型(sincere type)と、結局本攻撃を行う強硬型(hard type)にさらに分かれる。

要旨に記されている2種類の均衡は、本文では次のように記述されている。

  • 一元的均衡:P~1が被挑戦者のタイプや懲罰のコミットメントを取り消すかどうかに左右されない。
    • P~1=0の一元的均衡は宥和均衡と呼ぶ。
      • P~2=0の宥和均衡は自明の均衡と呼び、その場合、挑戦者は必ず攻撃する。
  • 分離均衡:タイプが異なる被挑戦者は異なるP~1の値を選択する。
    • 分離均衡では、予備的攻撃を行った挑戦者はP~1に基づいて本攻撃を行うか否かを決定する。

均衡について導出された定理1は以下の通り*3

A non-trivial optimal pooling equilibrium is an appeasement equilibrium but the normal challenger stays out for certain. In an optimal separating equilibrium P1 > 0, the normal challenger strictly prefers to attack, the weak type of incumbent revokes and chooses P~1 = 0 and the strong type never revokes. The normal challenger continues to attack against the weak type of incumbent and tries to exit against the strong type of incumbent.
(拙訳)
自明でない最適な一元的均衡は、宥和均衡であるが、通常型の挑戦者は確実に攻撃を行わないものである。 P1 > 0の最適な分離均衡では、通常型の挑戦者は必ず攻撃を選好し、弱者タイプの被挑戦者は取り消しを行ってP~1 = 0を選択し、強者タイプは決して取り消しを行わない。通常の挑戦者は弱者タイプの被挑戦者に対しては攻撃を続行し、強者タイプの被挑戦者に対しては攻撃を中止しようと試みる。


過去の事例の解釈については、このモデルを過去の出来事に当てはめ、パラメータを推計して抑止の効果を定量化する、という分析を期待したいところだが、そこまでは行っていない。プーチンヒトラーは正直型かと思われたが強硬型だった、という話や*4ハマスイスラエルの反応を読み違えて2023年10月7日の本攻撃に踏み切った、という話に留まっている*5

*1:これはモデルの簡単化のため(=部分的なペイオフという追加のパラメータや、中止後の被挑戦者による追い打ち的な懲罰が不要になる)、と説明されている。

*2:命題2では被挑戦者のタイプが1種類の場合の均衡について論じている。ただ、以下のような誤りと思われる点が散見される。
・p.6の最終行の a + 1 ≦ P1 - P2はおそらくa + 1 ≦ P1 + P2の誤り。
・p.7の最初の行の -ψ (1 + P1 + ・・・)の「1 +」はおそらく不要。また、ここの効用は懲罰コストに起因するもののみ論じていると思われるが、その旨の記述がない。
・p.7の3行目の式の-ψ (P1 - ・・・)は-ψ (P1 + ・・・)の誤りで、かつ、最後の「)」が抜けていると思われる。

*3:定理2ではそれぞれの均衡が成立するパラメータの条件を記述している。

*4:他にあまり知られていない強硬型として、ソビエトのアフガン侵攻後のパキスタンを挙げている。逆に正直型としては、1974年のキプロス侵攻後もキプロスギリシャ側やギリシャ本国に攻撃を仕掛けなかったトルコや、19世紀後半に米大陸の覇権争いで英国を追い出したが、英国のそれ以外の世界的な利権には手を出さなかった米国を挙げている。

*5:そのほか、抑止について論じ、冷戦以外の成功例としてコソボ危機を挙げている。それは分離均衡となったために予備的攻撃の抑止には失敗したものの、NATOEUセルビアへの6週間に亘る空爆で自分たちが強者であることを示し、セルビアは計画型ではなかったので、本攻撃は抑止された、との由。また、宥和政策の代表例とされるチェンバレンも、実は今回の分析で言えば一元的均衡の戦略を採っていたのであり、それから言えば予備的攻撃であるチェコ侵攻には宥和的に応じ、ポーランド侵攻には懲罰で応じるのが正解であった、と評価している。ただ、残念ながらチェンバレンは弱者で、ヒトラーは強硬型だったので、本攻撃の抑止には失敗した。その点ではプーチンウクライナ侵攻も同様であるが、現在のNATOチェンバレンよりは強者かもしれず、プーチンヒトラーほど本攻撃への準備ができていなかったかもしれない、と結論部の最後で述べている。