日本のネット界隈では野口旭氏のニューズウィーク連載を始めとしてMMTに関する議論が続いているが、米国ではどうなっているのかとぐぐってみたところ、サンノゼ州立大のJeffrey Rogers HummelがMMTについて表題の4/1付けeconlib記事(原題は「Interpreting Modern Monetary Theory」)*1で詳細な批判を繰り広げていることに気付いた。以下にその概要をまとめてみる。
- MMTの貨幣に対する基本的な主張は特に新しくも現代的でもない。不換紙幣の発行によって政府支出が賄えるというのはすべての経済学者が知っていたことである。MMTも、以下の3つの条件のいずれかが満たされなければ大規模な政府支出によってインフレが生じることを認識している。
- 経済が顕著な失業を抱えている
- 政府が徴税力でインフレをコントロールする
- 銀行システムが何らかの方法で政府の金融拡張に対応する
- 第一の点についてMMTは、失業率が現在4%近傍にあることを受けて、職業訓練・保障政策に焦点を当てている。労働参加率の上昇による生産の増加が物価上昇を抑制する、という趣旨かと思われるが、ほぼ定常的なフィリップス曲線を仮定している。また、無業者のうち誰が政府の仕事を希望するのか、および、そういった大規模な政策が民間の労働市場をどの程度混乱させるか、といった細部について無頓着である。
- MMTは徴税によって貨幣を経済から引き揚げられると言うが、引き揚げた貨幣を経済に再循環させないためにどのようにするか、については明らかにしていない。引き揚げた貨幣はFRBの財務省の口座に積まれることになるが、過去1世紀、それによって実際にマネタリーベースが減らされたことはない。FRBのオペ等によって結局は経済に還流するのが常である。FRBの財務省口座が増えた分だけFRBの資本勘定を減らす、もしくは資産側に対応項目を立てる、といった方策も考えられるが、MMTerはそうした会計的な問題を自縄自縛的な制約として一蹴しており、彼らの新たな制度的方策がどのようなものかは依然として不明である。
- MMTは、そもそも政府が十分な額を発行しなければ民間部門は不換紙幣を使えない、と強調する。それは明らかに正しいが、上記の話とは無関係である。経済への不換紙幣の注入は大部分が過去に起きたことだからである。問題はストックではなくフローであり、一部の進歩派が提唱する大規模な政府支出がもたらすインフレを抑えるには、新たに注入されるお金を経済から引き揚げるか、新税によって賄うしかない。
- あるいは、貨幣の量ではなく流通速度を抑えてインフレをコントロールする、ということも考えられる。それはFTPLに帰着するが、FTPLは将来の財政黒字を含意しているので、財政黒字を嫌うMMTとは相容れない。
- 徴税ではなく国債発行によって貨幣を経済から引き揚げる、という方策も考えられるが、それも結局はFRBの財務省口座に積まれることになり、恒久的に経済から引き揚げるためには上述の工夫が必要になる。また、国債発行は将来の利払いを伴う。国債を無効にしてしまう、という手も考えられるが、インフレ抑制や債務削減のためにそうした手法を提唱するMMTerはいない。そもそも彼らは政府債務の拡大が問題だとは思っていない。
- MMTerの中にはFRBが国債を全部買い上げることを提唱する者もいるが、それは利付き国債を利付き準備預金に変換するだけの事であり、そのことは提唱者も分かっている。また、それによってマネタリーベースは大きく拡大するが、それがインフレ抑制に役立つとは思えない。そもそもMMTは、以下に示すように、利付きであろうがなかろうが、マネタリーベースの増加はインフレにつながらない、と考えている。
- 銀行によってインフレをコントロールする、というのはMMTの主張の中で最も複雑かつ分かりにくい議論である。彼らの主張に幾ばくかの信憑性を与えているのは、FRBがマネタリーベースを拡大してもインフレが亢進しなかったという実際の事例である。MMTerが認めるように、その事象には準備預金への付利が寄与しているが、ただ、MMTは、付利があろうがなかろうがマネタリーベースの増加はインフレにつながらない、と主張する。彼らの主張の裏付けとなっているのはポストケインジアン経済学である。MMTerが皆ポストケインジアンを完全に受け入れているわけではないが、貨幣流通総量が政府の裁量的管理の影響を受けずに内生的に決まる、という中心的な主張は概ね受け入れている。
- ポストケインジアンやMMTerは、自然利子率の概念を否定している。MMTerのステファニー・ケルトンは、民間投資には金利はあまり影響せず、アニマルスピリットや利益見通しで決まる、と述べている。ポストケインジアンはまた、貯蓄も金利に対し非弾性的である、と主張する。そのため、貸出市場は予定された投資と貯蓄を均衡させることができない、と彼らは言う。従って、過小支出によって不況が引き起こされるならば、民間が無駄に積み上げた現金残高を減らして支出を増やすことができるのは政府だけ、ということになる。
- MMTはまた、政府の財政赤字は民間の金融資産を増やす、ということを強調する。それに対し、民間同士の金融資産は、負債で相殺されるため、ネットベースではゼロとなる。民間が保有する政府債務は、財政赤字が国債によって賄われないとするならば、不換紙幣だけである。財政赤字が民間部門間の金融商品をクラウドアウトするとしても(ただしそうしたことはあまり起こらないとMMTは考えている)、財政赤字は全体の富の増加に寄与し、支出や実物投資の増加をもたらす。ここから、サマーズやクルーグマンのようなMMT批判者を困惑させた、財政赤字は実は金利を低下させる、という主張が出てくる。
- 基本的にMMTは政府債務と政府貨幣を等価に扱っているため、上記の主張が出てくる。またMMTは、政府債務の規模を気に掛けることもなく、予算制約は存在しない、と主張する。さらに、FTPLやリカードの等価性が提唱するような、将来の増税予想が富の認識に与える影響も気にしない。政府債務が純資産と見做される「債券幻想」がすべてに優先する。MMTのマクロ経済理論で唯一意味のある予想は、将来の利益に関するものだけであるが、これは経済の基本的な不確実性によって誤差の大きいものとなる。MMTはまた、インフレ予想が名目金利と実質金利を分けるというフィッシャー効果の実証的重要性も疑問視し、政府は名目金利のみ重視すべき、と主張する。
- MMTは、民間投資がアニマルスピリットによって決まるならば、銀行融資も同様である、とする。預金が銀行融資の源泉なのではなく、銀行融資が預金を創り出すのである。準備預金が銀行融資を制約することはなく、信用創造にも影響しない。そのため、マネーサプライおよびマネタリーベースの総量は内生的に決まる。
- この話の前提になっているのは、無リスク名目金利は市場によって決まるのではなく、最終的には任意の値に決まる、という考えである。ケルトンはクルーグマンへの回答の中で「FRBは自らが望むいかなる金利政策をも追求できる」と書き、レイは、中銀は翌日物金利をゼロに維持すべき、と提言した。レイの主張に沿えば、短期国債の金利はほぼゼロとなり、ベースマネーのほぼ完全な代替物となる。それによって金融政策と財政政策の差は消滅する。長期ならびに非流動的な資産や実物資産の利回りはプラスになるが、その値を決めるのは利益、将来の利益予想、流動性だけとなる。レイの言葉を借りれば、一般の「ポートフォリオ選好」に沿う形で決まることになる。
結論部でHummelは以下のように書いている。
There you have the topsy-turvy world of MMT. With accounting games, advocates of MMT attempt to reverse the roles of the government treasury and the central bank. They believe that the Treasury should control inflation and the Fed should finance government expenses. One of the most emphatic assertions of MMT, to quote Wray, is “taxes are not needed to ‘pay for’ government spending.” Taxes are needed only to make sure people accept fiat money and, if necessary, to keep inflation in check. And because both the treasury and central bank are government institutions, there is some truth to the idea that both institutions have dual roles. But as many others have pointed out, MMT theorists have yet to address or even consider the enormous public-choice problems that could hinder how their desired role reversal might function in practice.
Equally important, critical parts of MMT’s edifice are built on Post-Keynesian foundations. As Kelton and Wray, along with Scott Fullwiler proclaim: “We have never tried to separate our ‘MMT’ approach from the heterodox tradition we share with Post Keynesians, Institutionalists and others. We have tried to extend that tradition.” A comprehensive and extensive critique of the Post-Keynesian paradigm is beyond the scope of this article. But if you strip away Post-Keynesian precepts, much of MMT’s edifice collapses, taking down many of its policy proposals with it.
(拙訳)
これがMMTの逆しまの世界である。MMTの提唱者たちは、会計ゲームを基に、政府の財務省と中央銀行の役割を逆転させようとしている。彼らは財務省がインフレをコントロールし、FRBが政府支出を賄うべき、と考えている。MMTの主張の中で最も強調されているのは、レイを引用すると「税は政府支出を『支払う』ために必要とされているのではない」ということである。税が必要とされているのは、人々が不換紙幣を受け取ることを確実にし、かつ、必要に応じてインフレを抑制するためだけである。財務省も中銀も政府機関なので、両機関ともに二重の役割がある、という考えには幾ばくかの真実がある。しかし他の多くの人々が指摘したように、MMT理論家たちは、彼らの望む役割の逆転が実際に機能する妨げになるであろう公共選択の大いなる問題を解決、あるいは少なくとも検討する必要がある。
同じくらい重要なのは、MMTの構築物の重要な部分がポストケインジアンの基礎に建てられていることである。ケルトン、レイ、そしてスコット・フルワイラーが主張するように、「『MMT』アプローチを、我々がポストケインジアンや制度学派などと共有する異端の伝統から分離しようとしたことはない。我々はその伝統を拡張しようとしたのだ。」 ポストケインジアンの枠組みを包括的かつ広範に批判することは、本稿の範囲を超える。しかし、ポストケインジアンの教えを取り払うならば、MMTの構築物のかなりの部分が崩壊し、政策提言の多くもまた崩れることになる。