なぜ資本主義は無意味な職を創出するのか

David GraeberというLSEの人類学者が、9/27付の表題のEvonomics記事(原題は「Why Capitalism Creates Pointless Jobs」)で、ケインズの「わが孫たちの経済的可能性」*1の労働時間の予言が間違った理由について、ややマルクス主義的な仮説を立てている(初出はストライク誌の2013/8/17付記事「On the Phenomenon of Bullshit Jobs」;H/T Mostly Economics)。
以下はその冒頭。

In the year 1930, John Maynard Keynes predicted that technology would have advanced sufficiently by century’s end that countries like Great Britain or the United States would achieve a 15-hour work week. There’s every reason to believe he was right. In technological terms, we are quite capable of this. And yet it didn’t happen. Instead, technology has been marshaled, if anything, to figure out ways to make us all work more. In order to achieve this, jobs have had to be created that are, effectively, pointless. Huge swathes of people, in Europe and North America in particular, spend their entire working lives performing tasks they secretly believe do not really need to be performed. The moral and spiritual damage that comes from this situation is profound. It is a scar across our collective soul. Yet virtually no one talks about it.
(拙訳)
1930年、ジョン・メイナード・ケインズは、世紀末までに技術がかなり進歩する結果、英米などでは週15時間労働が達成されるだろう、と予言した。彼が正しかったと信ずべき理由は大いにある。技術面で言えば、我々は彼の予言を達成することが十分に可能である。しかし、それは現実化しなかった。技術はむしろ、我々皆をもっと働かせる方法を見い出すのに使われた。そのために、事実上意味のない仕事が創り出されねばならなかった。欧州と北米を中心として、莫大な人数の人々が、内心ではやる必要は無いと考えている仕事を遂行することに職業人生を捧げている。この状況がもたらす倫理的精神的損害は計り知れない。我々の集団的な精神に傷を残すものである。しかしそれについて語るものはほぼ皆無である。

これに続いてGraeberは、以下のような考察を展開している。

  • 働く時間を減らすことと、消費を増やすこととの間の選択を迫られて、我々は後者を選んだ、というのが、ケインズの予言が実現しなかった理由についての今日の標準的な答え。しかし新しい職や産業は1920年代以降日に日に増えているが、その中で実際の消費財を提供するものは限られている。
  • 増えた職や産業は、専門職、管理職、事務職、営業、サービス業など。製造業関係の仕事は、ケインズが予言した通り、自動化されて減っている。
  • しかも、サービス業よりは管理系の職が増えている。金融サービスやテレマーケティングなど新しい産業が誕生したほか、会社法部門、学校や医療の管理部門、人事部門、広報部門などがかつてなく拡大した。また、それらの部門に管理や技術や安全のサポートを提供する職もある。さらに、犬を洗う仕事や深夜のピザ配達のように、皆が働いているために付随的に発生した産業もある。Graeberはこうした職を「犬も食わない仕事(bullshit jobs)」と呼んでいる。
  • まるで誰かが皆を働かせるために意味の無い仕事を創り出しているかのようである。勤労が権利であり神聖な義務であった社会主義体制下ならともかく、競争で無駄が排除される資本主義では本来起きない事象のはず。
  • 企業の容赦ないダウンサイジングや効率化は常に、実際にモノを作ったり運んだり直したり維持したりしている人々に降りかかり、事務職は増え続けている。後者は紙の上では週に40〜50時間働いているが、実際の労働時間はケインズが予言したように15時間程度である。残りの時間は、動機付けセミナーを組成もしくは出席したり、フェイスブックのプロフィールを更新したり、動画をダウンロードしたりすることに費やされている。
  • この謎は経済的なものではなく、倫理的かつ政治的なものである。支配階級は、時間のある幸せで生産的な人々は自らの存続を脅かすほど危険である、ということを1960年代の経験などから理解した。また、仕事することはそれ自体に道徳的な価値があり、起きている時間の大部分を何らかの強固な労働規律に供しない人間には価値が無い、という価値観は支配階級にとって極めて都合が良かった。
  • 英国の大学における管理責任の終わりなき拡大を例に考えてみると、一種の地獄絵図になっている。人々は自らの時間の大半を好きでも得意でも無いことに充てている。本来は棚作りに長けているということで雇われたのに、魚を揚げることにかなりの時間を費やす羽目に陥っている。しかしその魚料理の仕事が本当に必要というわけではなく、揚げるべき魚の数も限られている。だが、同僚が魚を揚げるのをさぼって棚作りに時間を割いていると腹を立てることから、最終的には皆が魚を揚げることに勤しみ、下手な魚料理があちこちに無数に積みあがる結果に終わる。この描写は、経済における倫理の動向のかなり正確な縮図になっていると思われる。
  • 仕事が必要な否かの客観的な基準はなく、自分が世界に貢献していると信じている人に対して実際にはそうではない、と言うつもりもない。ただ、個人的な経験から言うと、企業弁護士や、前述の新規産業で働く人のほぼすべては、内心では自分の仕事は無意味だと考えている。それでも彼らに需要があるのは、富の大部分を支配する1%が必要と考えているためである。
  • しかも我々の社会は、上記の魚料理の例のように、実際に意味のある仕事をしている人に対して鬱憤が向けられる仕組みになっている。客観的に指標化するのは難しいが、例えば看護婦やゴミ収集人や機械工は居なくては困る人たちである。教師や港湾労働者もそうであり、SF作家やスカミュージシャンでさえ居なくなると世の中はより住みにくくなる。一方、プライベートエクイティのCEOやロビイストやPRリサーチャーや保険数理士やテレマーケティング担当者や強制執行官や法律顧問が居なくなっても、世の中はさほど困らないかもしれない(むしろ良くなるという人も多かろう)。しかし、居なければ困る人ほど給料が安い、という一般則が、医者などの少数を例外として、社会には存在している。
  • さらに奇妙なことには、こうした社会の在り方が正しい、と皆が感じているように思われる。そのことが右派的ポピュリズムの強さの秘かな一因となっている。地下鉄の職員が契約交渉でストを打てば、タブロイド紙は彼らに対する怒りを煽る。彼らがロンドンを麻痺させられることこそ、彼らの仕事が真に必要であることを示しているが、まさにそれが人々を苛立たせるわけだ。米国では、共和党が、教師や自動車工の過大とされる給与や手当に対して怒りを煽ることに大いに成功した(注目すべきことに、実際に問題を引き起こした学校の管理者や自動車業界の経営者には怒りは向けられなかった)。それは恰も「教育や自動車製造という本当の仕事をしている上に、図々しくも中流階級の年金や医療が欲しいというのか?」と言わんばかりであった。


Graeberは以下のように論説を結んでいる。

If someone had designed a work regime perfectly suited to maintaining the power of finance capital, it’s hard to see how they could have done a better job. Real, productive workers are relentlessly squeezed and exploited. The remainder are divided between a terrorised stratum of the – universally reviled – unemployed and a larger stratum who are basically paid to do nothing, in positions designed to make them identify with the perspectives and sensibilities of the ruling class (managers, administrators, etc) – and particularly its financial avatars – but, at the same time, foster a simmering resentment against anyone whose work has clear and undeniable social value. Clearly, the system was never consciously designed. It emerged from almost a century of trial and error. But it is the only explanation for why, despite our technological capacities, we are not all working 3-4 hour days.
(拙訳)
誰かが金融資本の権力を維持するのに完璧に適した労働体制を設計しようとしても、これよりも上手くはできないだろう。真の生産的な労働者は容赦なく搾取され使役される。残りは、失業状態――それは常に非難の対象となる――の悲惨な階層と、事実上何もしないことで給与を得ている多数派の階層に分かれている。後者は、物の見方や感覚が支配階級(経営者、官僚、等々)、とりわけその金融面での代理人と一致するように、かつ、明確で否定しようのない社会的価値を持つ職に就いている人々すべてに対するやる方ない憤懣が醸成されるように設計された職に就いている。明らかに、これは意識的に設計されたシステムでは決してない。およそ一世紀に亘る試行錯誤から出現したものである。しかしそれは、今の技術の持てる力にも関わらず、我々の労働時間が一日3-4時間になっていない唯一の理由である。

*1:cf. ここ