経済学基本原理誇張主義

ノアピニオン氏が、経済学入門で習うような基本原理の正しさを過大に評価する傾向を「101ism」と呼んだ*1。それを受けてクルーグマンが、「101 Boosterism」というブログエントリを書いている。そこで彼は、仮に経済学基本原理が正しいとしても、それが重要であるとは限らない、という点を指摘している。その例としてクルーグマンは、自分のホームグラウンドである国際貿易の分野から、かつてサミュエルソンが明白ではないが真実である経済学の洞察の好例、と称した比較優位を挙げている。

Now, there are a variety of reasons why, despite this big insight, free trade may not be the right policy – that’s Noah’s 101ism. But I want to make a different point: even if comparative advantage is a profound insight, does this make free trade versus protectionism a front-burner issue? How important is this insight, anyway?
And the answer – the answer that comes from standard trade models – is, not as important as many people seem to think. Yes, protectionism reduces world income. But if you want to make the case that trade liberalization has been the principal driver of growth, or anything along those lines, well, the models don’t say that. If you want enormous benefits to trade, you have to invoke things like technology transfer that aren’t in the very analysis that gives the case for free trade such prestige.
In fact, you see a lot of that. There’s a kind of bait and switch, in which people invoke Ricardo and the gains from trade to say “free trade good”, then tell scare stories about how protectionism would destroy millions of jobs and cause a global depression, which doesn’t make much sense – and in any case has nothing to do with the classical analysis of the gains from trade.
(拙訳)
これは重要な洞察であるが、自由貿易が正しい政策とはならない理由は数多く存在する。それがノアのいう経済学基本原理原理主義の問題である。しかしここで私は別の点を指摘したい。即ち、比較優位が深遠な洞察だとしても、それによって自由主義保護主義が最重要の問題となるのだろうか? そもそもこの洞察はどの程度重要なのだろうか?
その答え――標準的な貿易モデルから得られる答え――は、多くの人が思っているであろうほど重要ではない、というものである。確かに保護主義は世界の所得を減少させる。しかし、貿易の自由化が経済成長の主要エンジンとなる、といった類の主張をしたいと考えても、モデルからはそうした話は出てこないのだ。貿易の大いなる恩恵を主張したいならば、技術移転といった話を持ち出す必要があるが、それは自由貿易賛成論にあれほどの権威を与えたそもそもの分析から出てくる話ではない。
実際のところ、こうしたケースは数多く目にする。リカードや貿易の恩恵を持ち出して「自由貿易の善」を唱えた後、保護主義がいかに何百万もの職を破壊し世界的な恐慌をもたらすか、という話で人を脅かす、という、いわばおとり商法である。しかしその恐ろしい話は意味をなしておらず、また、いずれにせよ貿易の恩恵に関する古典的な分析とは無関係である。

これは、ここで紹介した保護主義に関する議論の補論になっているように思われる。


クルーグマンが「101 Boosterism」の別の例として挙げているのが、炭素価格制度である。彼は、排出権に価格を付けるという洞察は素晴らしく、キャップアンドトレードは酸性雨の減少に大いに効果があったことを認めつつも、「101ism」と「101 Boosterism」の両面で炭素価格制度に問題があることを指摘している。
まず、「101ism」については以下の2点を指摘している。

  • 支出の節約に関して消費者は物凄く合理的というわけではない。
  • 経済学入門は技術革新について何も述べていない:炭素価格制度が効率的なのは既存の技術を最大限利用する点においてであり、より良い技術の開発を促進する点においてではない。

次いで、「101 Boosterism」については、炭素価格制度の重要性は必要とされる反応の複雑度に依存する、と指摘し、以下の2つの見解を対照させている。

  • 排出を減らすに際し、非常に多くの方面の動向を勘案する必要があるならば、電力会社に行政命令を出す、といった行政的な解決法よりも、すべての抜け道の可能性を一括して塞ぐ炭素価格制度の方が優れている。
  • 一方、問題が限定的な手段によってかなりの程度解決されるならば、炭素価格制度はそれほど重要ではなくなる。

様々な分析に目を通した結果、クルーグマン自身は後者の見解に傾いているという。というのは、気候変動の問題を限定的なものとするのはそれほど難しいことではなく、石炭を燃やすことを止めればかなり前進し、その他2、3の大きなことを実施すれば大いに前進するから、とのことである。即ち、包括的な炭素価格制度は最善の解決法かもしれないが、効果的な行動のための必須条件とは限らない、とクルーグマンは言う。


クルーグマンはエントリを以下の言葉で締め括っている。

The point is that just because Econ 101 makes a smart, counterintuitive point doesn’t make that point of central importance, here or elsewhere. People should know what’s in the textbook; above all, they should buy my book! But never imagine that it’s the be-all and end-all of what matters.
(拙訳)
要は、経済学入門が気の利いた反直観的な点を指摘しているからと言って、その指摘された点が此処彼処で中心的な重要性を帯びるとは限らない、ということである。人々は教科書に載っていることを知っているべきである:まずは私の本を買うべし! しかしそれが問題のすべてないし解決法のすべてであるなどと考えてはいけない。

*1:これはマンキューの十大原理に噛み付いたDavid Colanderに通ずる問題意識かと思われる。ちなみに「101ism」という用語について、このエントリではノアピニオン氏は「I didn't invent the name but I forget who did」と書いているが、後続エントリ邦訳)では「a word I made up」としている。