クルーグマンが真のケインジアンではない理由

昨日紹介したLevineやWilliamsonの議論ではクルーグマンケインジアンとして断罪していたが、スウェーデンの経済学者Lars Syllが表題のブログエントリを書き、クルーグマンを真のケインジアンではないとして断罪している(原題は「Why Paul Krugman is no real Keynesian」)。これにデロング経由でクルーグマン反応した
クルーグマンの反応の内容は概ね以下の通り。

  • ケインズは多くのことを述べたが、必ずしもすべて整合性が取れていたわけではない。Syllは、均衡モデルを使い期待の不安定性を強調しなかった咎でクルーグマンは真のケインジアンではないと言うが、ケインズ自身も、一般理論の冒頭で有効需要の原理を説明する際に、期待を所与とした一時的な均衡モデルを用いた。
  • 経済学は偉人の訓詁学として進めるべきではない。現状の理解や意思決定の助けになるかどうかで経済学の手法は判断されるべき。その点でIS-LMは過去6〜7年間に大きな勝利を収めた。ヒックスのIS-LMケインズ自身の是認を得たかどうかはその際関係無い。
  • 真のケインジアンでないことを指摘することによって何か有用な助言を貰えるのであれば喜んで耳を傾けるが、そうでなければ単なる文芸批評に過ぎず、興味は無い。

またデロングは、一般理論の第22章を引いて、Syll(や彼が援用したLance TaylorやDuncan Foley)の指摘に反し、ケインズも総需要ショックが長期的な生産水準に影響しないと考えていた、と述べている。


なお、クルーグマンやデロングの反論はSyllのブログエントリの前半部に向けられているが、エントリの後半でSyllは、クルーグマン以前にクヌート・ヴィクセルの自然利子率を持ち出したことを反ケインズ的である、としている。というのは、一般理論の第17章でケインズは以下のように書いているからである(以下の邦訳は山形浩生さんによる)。

 拙著『貨幣論』で、私は独特な*1金利と思ったものを定義し、それを自然金利と呼びました——つまり『貨幣論』の用語を使うなら、貯蓄率(同書での定義)と投資率との等価性を保存するような金利です。私はこれが、ヴィクセルの「自然金利」を発展させて明確にしたものだと考えていました。ヴィクセル的にはこれは、何らかの明記されていない物価水準安定性を保存するような金利だそうです。
 でもこの定義にしたがうと、どんな社会でも仮想的な雇用水準ごとにちがった自然金利が決まる、という事実を見すごしていました。同様に、あらゆる金利水準について、それが「自然」金利になる雇用水準が存在してしまいます。ですから、ある唯一の自然金利の話をしたり、上の定義で雇用水準とは関係ない一意的な金利の値が得られると思うのはまちがいでした。その時点では、完全雇用以下でシステムが均衡できるとは理解していなかったのです。
 以前は「自然金利」がとても有望な概念だと思っていましたが、今の私はこれがなにか便利なものや重要なものの分析に貢献してくれるとは思っていません。単に、現状を維持する金利というだけです。一般には、現状それ自体において支配的な金利などというものはありません*2


だが、Syllの引用部に続けてケインズは以下のように書いている

 もしそんな金利があるなら、ずいぶん独特で*3重要な金利です。言わば中立金利とでも言うべきものにちがいありません。つまり、経済システムの他のパラメータを前提として、完全雇用と整合性のある、上の意味での自然金利です。でもこれはむしろ、最適金利と呼ぶ方がいいかもしれません。
 中立金利は、産出と雇用の関係が、雇用弾性が全体としてゼロになるようになっているときの均衡金利として定義するともっと厳密です。
 これはまたもや、金利の古典派理論をきちんと理解しようとすれば、そこにどんな暗黙の想定が必要かについて教えてくれるものです。この理論は、金利の実績値が常に自然金利(いま定義したような意味で)に等しいと想定しているか、そうでなければ実際の金利が常に、雇用をどこか所定の一定水準で保つような率になっている、と想定しています。もし伝統理論をこんなふうに解釈すれば、その実用的な結論には、注目すべきものはほとんど何もなくなってしまいます。古典派理論は、銀行当局や自然の力が働くために自然金利が上のどちらかの条件を満たすのだ、と想定しています。そしてそれは、この条件の下で社会の生産的な要素の適用や報酬をもたらす法則を検討します。そんな制約が働いていれば、産出量は現在の設備や技術の下で、想定された一定の雇用量だけに左右されます。そして私たちはしっかりとリカード的世界に落ち着いてしまうのです。

クルーグマンやその他の経済学者の言う自然利子率は、ここでケインズの言う中立金利ないし最適金利、即ち完全雇用と整合的な自然利子率であることは明らかであろう。つまりSyllは言葉の表面だけを捉えてクルーグマンケインズが矛盾していると書いているが、単に、ここでケインズが打ち出した自然利子率と中立金利ないし最適金利との区別という概念がその後定着せず、後者の意味で前者が使われるようになった、という歴史的経緯を見落としているだけのように思われる。


またSyllは、経済に自己修復力があるかどうかについてもケインズクルーグマンの意見は食い違っている(ケインズ=自己修復力は無い、クルーグマン=自己修復力はある)、としている。その証拠として、追記でサンドイッチマンブログのケインズの1934年のラジオ講演にリンクしている。だが、そこでケインズは以下のように述べている。

Now the school that believes in self-adjustment is, in fact, assuming that the rate of interest adjusts itself more or less automatically, so as to encourage, just the right amount of production of capital goods to keep our incomes at the maximum level that our energies and our organization and our knowledge of how to produce efficiently are capable of providing. This is, however, pure assumption. There is no theoretical reason for believing it to be true. A very moderate amount of observation of the facts, unclouded by preconceptions, is sufficient to show that they do not bear it out. Those, standing on my side of the gulf, whom I have ventured to describe as half-right and half-wrong, have perceived this; and they conclude that the only remedy is for us to change the distribution of wealth and modify our habits in such a way as to increase our propensity to spend our incomes on current consumption. I agree with them in thinking that this would be a remedy. But I disagree with them when they go further and argue that it is the only remedy. For there is an alternative, namely, to increase the output of capital goods by reducing the rate of interest and in other ways.
When the rate of interest has fallen to a very low figure and has remained there sufficiently long to show that there is no further capital construction worth doing even at that low rate, then I should agree that the facts point to the necessity of drastic social changes directed towards increasing consumption. For it would be clear that we already had as great a stock of capital as we could usefully employ.
Even as things are, there is a strong presumption that a greater equality of incomes would lead to increased employment and greater aggregate income. But hitherto the rate of interest has been too high to allow us to have all the capital goods, particularly houses, that would be useful to us. Thus, at present, it is important to maintain a careful balance between stimulating consumption and stimulating investment.
(拙訳)
自己調整を信じる学派は、事実上、金利が多かれ少なかれ自動的に自らを調整することを仮定していることになります。それによって、我々のエネルギー、我々の組織、我々の知識が提供し得る限りの効率的な生産方法における最大水準に我々の所得が維持されるのにちょうど適切な分だけの資本財の生産が促される、というわけです。しかしそれは、単なる仮定に過ぎません。それが真実であると信ずるに足る理論的根拠は無いのです。先入観を排して事実を多少なりとも眺めれば、それが成立しないことが十分に分かります。私の側の陣営にいる人々は――彼らも半分正しく半分間違っていると先ほど敢えて申し上げましたが――そのことを理解しています。そこで彼らは、富の配分を変え、所得から現在の消費に回す支出性向を上げるように我々の習慣を修正することが唯一の解決策だ、と結論付けたわけです。それが解決策になると考える点においては私は彼らに同意します。しかし、それが唯一の解決策だと彼らが言うようになると、同意しかねます。というのは、別の解決策があるからです。それは即ち、金利の引き下げやその他の手段によって資本財の生産を増やすことです。
金利が非常に低い水準に低下し、そこにかなり長い期間留まり、その低水準の金利においても実施に値する設備投資がもはや存在しないことが明らかになれば、その時には私も、消費を増加させるような抜本的な社会変革の必要性が事実によって示された、ということに同意せざるを得ないでしょう。その場合には、我々が有用に稼働できるのに十分すぎるほどの資本が既に存在することが明らかとなるわけですから。
その場合でも、所得格差の平準化が雇用と総所得を増加させる、というのは強い仮定です。しかも、これまでのところは、金利が高過ぎたため、住宅を初めとする資本財が、我々皆に取って役立つだけの量が供給されることはありませんでした。従って、現時点では、消費の刺激策と投資の刺激策の間で注意深くバランスを取ることが重要となります。

つまりここでのケインズは、金利には古典派の言うような自己調整能力は無いから、それを何とか引き下げて投資を喚起するような政策を訴えているわけだ。これは極めてクルーグマン的な主張であり、実際、ここで紹介したように、まさにこのケインズの論考を契機として*4クルーグマンが改めて金融緩和政策の不十分さを批判したことがあった*5

*1:ここのuniqueは「唯一の」という訳語の方が適しているように思われる。

*2:ここは塩野谷訳の「一般に、われわれは現状そのものには主たる関心をもってはいない」という訳の方が適しているように思われる(=ここでの「interest」は「金利」ではなく「関心」で、言うなればケインズの言葉遊びが表れた一文かと思われる)。

*3:ここのuniqueも「唯一の」という訳語の方が適しているように思われる。

*4:同論考に触れたマイク・コンツァルのWaPo論説にクルーグマンが反応した。

*5:なお、ケインズの上記引用部の低金利が長期間続く可能性に関する論考は長期停滞論を連想させるが、ここで紹介したように、長期停滞に陥らないためにも金融政策は「臆病の罠(timidity trap)」を排すべき、ともクルーグマンは訴えている。