Nick Roweが、散髪が唯一の財となっている経済での失業について考察し、それを基にニューケインジアンモデルに対してより現実的な解釈を加えようとしている。
Suppose the central bank sets the rate of interest too high. Will this cause unemployment?
No. Any unemployed agent would simply cut his own hair.
Suppose we change the model so agents can't cut their own hair, to motivate trade. Can we get unemployment now?
No. Two unemployed agents would simply do a barter deal to cut each other's hair.
We need to change the model so that monetary exchange is essential -- they can't trade without using money as a medium of exchange. ...
Reinterpreting the New Keynesian model as a model of a monetary exchange economy, where every agent has an interest-earning chequing account at the central bank, kills two birds with one stone (it explains how the central bank can set the rate of interest, and explains how this can cause deficient-demand unemployment). Yet it leaves the equations of the model unchanged. No sensible New Keynesian macroeconomist should object to this reinterpretation. It's a friendly amendment -- and not even really an amendment.
(拙訳)
中銀が金利を高く設定し過ぎたとしよう。それは失業をもたらすだろうか?
いいや。失業者は自分の髪を切るだけである。
モデルを変更して各人が自分の髪を切れないようにして交易を動機付けたらどうだろうか? 今度は失業がもたらされるだろうか?
いいや。失業者2人がバーター取引でお互いの髪を切るだけである。
我々は、貨幣交換が不可欠となるようにモデルを変更しなくてはならない。交換の媒介としての貨幣を使うことなく交易ができないようにするのだ。・・・
各人が中銀に利息付きの当座預金口座を持っているような貨幣交換経済としてニューケインジアンモデルを解釈し直すことは、一石二鳥である(中銀がどのように金利を設定できるかを説明すると共に、それがどのように需要不足による失業を引き起こすかも説明する)。しかも、モデルは変わらないままである。分別のあるニューケインジアンマクロ経済学者でこの再解釈に反対する人はいないだろう。これは友好的な修正であり、実際には修正でさえない。
Roweに言わせれば、これはニューケインジアンモデルを現実化する二段階のうち簡単なステップだという(彼はこれを「the bait part of my Cunning Plan to bait and switch」と呼んでいる。また、下敷きにした9月のエントリでは、中央銀行の口座を、現金が消えたニューケインジアンモデルに残されたチェシャ猫の笑いに例えている*1)。
難しいのは、マネーストックを重要なものとするswitchパートだ、とRoweは言う。そのためには貨幣需要関数を導入する必要があるが、さらにそのためには個人の収入や支出が受けるショックに不均一性を導入して総マネーストックをプラスにする必要がある(個人が皆同一だと、総マネーストックはゼロになってしまう;純マネーストックは仮定によりゼロである)。また、中央銀行がマイナスの預金に課す金利とプラスの預金に支払う金利にスプレッドを設け、個人が収入と支払いを均衡させるのが困難だと仮定する必要がある。それによって、中銀の設定するスプレッドの負の関数としての総貨幣需要関数が手に入る。
しかしその貨幣需要関数をそのままニューケインジアンモデルに導入するわけにはいかない、とRoweは言う。というのは、ニューケインジアンモデルには一つの大きな問題があるからである。
There is a very big problem with the New Keynesian Macro model. It simply assumes, with zero justification for this additional (hidden) assumption, that agents in the model expect an automatic tendency towards full employment. As I explained in my old post, Old Keynesians would be screaming blue murder if they understood that New Keynesians were making this illicit assumption. Because it is precisely this question that Keynes wrote the General Theory to address.
To repeat the point I made in that old post, if the central bank always sets the real rate of interest equal to the natural rate of interest, that is a necessary but not a sufficient condition for output being at the natural ("full employment") level. There is a continuum of equilibria, with anything from 0% to 100% unemployment being an equilibrium. This result follows immediately from the Consumption-Euler equation. In the simple case of log preferences, where n is the rate of time preference proper, it is: C(t)/C(t+1) = (1+n)/(1+r(t)). The real interest rate only pins down the expected growth rate of consumption, not the level of consumption. And New Keynesians evade this problem by simply assuming that in the limit, as t approaches infinity, C(t) approaches the full employment level.
(拙訳)
ニューケインジアンマクロモデルには一つ非常に大きな問題がある。それは、モデルの主体は経済が完全雇用に自動的に戻るものだと期待している、と単純に仮定しており、その追加的な(隠れた)仮定についての正当化を一切していないことだ。古いエントリで説明したように、ニューケインジアンがこの非合法の仮定を置いていると知ったら、オールドケインジアンは大騒ぎするだろう。というのは、ケインズが一般理論を書いたのはまさにこの問題に取り組むためだったからだ。
古いエントリで書いた要点を繰り返すと、中銀が実質金利を常に自然利子率と等しくなるように設定したならば、それは生産が自然(「完全雇用」)水準にあるための必要条件ではあるが十分条件ではない。均衡は連続体となり、失業率が0%から100%の間のどこでも均衡となる。この結果は、消費のオイラー方程式からすぐに出てくる。対数型の選好という単純な場合では、nを時間選好率として、 C(t)/C(t+1) = (1+n)/(1+r(t)) となる。実質金利は消費の期待成長率を特定するに過ぎず、消費水準は特定しない。そしてニューケインジアンたちはこの問題を、tが無限に近付く極限ではC(t)が完全雇用水準に近付く、と単に仮定することにより回避している。
この問題は、IS曲線が自然利子率において水平であることから生じている、とRoweは指摘する。従って生産を決めるためにはLM曲線を右上がりにしてやる必要がある、と彼は言う。
...if we want the LM curve to slope up, so that the level of output is determinate, that supply function cannot be perfectly elastic at any given rate of interest.
It is not sufficient for a central bank to set a rate of interest (or one rate of interest plus a spread) and let the stock of money be determined by demand at that rate of interest. Long run output (not to mention the price level) is indeterminate if it does that, even if it sets the correct rate of interest. It needs to control the nominal quantity of money too. The central bank needs to set some nominal anchor, not just to make the price level determinate, but to make the level of output determinate.
The only mechanism that can provide an automatic tendency towards full employment (if, and that's a big "if", the central bank does the right thing) is the hot potato mechanism. If we reinterpret and reform the New Keynesian model the way it needs to be reinterpreted and reformed, we end up with Keynso-monetarism.
(拙訳)
・・・もしLM曲線を右上がりにして生産水準を決定したいならば、その(総貨幣)供給関数はどの所与の金利についても完全に弾力的、というわけにはいかなくなる。
中銀が金利(ないし金利とスプレッド)を設定し、貨幣ストックはその金利水準における需要が決定するのに任せれば良い、というわけにはいかないのだ。そのようにしてしまうと、たとえ金利を正しく設定していても、長期の生産(価格水準は言うまでもなく)は不定となってしまう。貨幣の名目量もコントロールする必要があるのだ。中銀は、価格水準を決定するためだけではなく、生産水準を決定するためにも、何らかの名目のアンカーを設定する必要がある。
(中銀が正しいことをすることを前提として――それは大いなる前提だが――)自動的に完全雇用に戻る傾向を提供する唯一のメカニズムは、ホットポテトのメカニズムである。もし我々がニューケインジアンモデルを必要な形に再解釈して改革するならば、ケインズ的なマネタリズムを手にすることになる。
なお、今回のRoweのエントリは、上記で「古いエントリ」として言及している3年前の彼のエントリを、デロングがRoweが「自らに課したシジフォス的な課題(self-assumed Sisyphean task)」として取り上げたことをきっかけにしている*2。
また、サイモン・レン−ルイスもRoweの3年前のエントリに反応し、Roweはニューケインジアンモデルの完全雇用に戻るという仮定を問題視しているが、人々が将来の収入の予想を下方修正したり、他者の行動に対する予想を間違えたりすることによって悪しき均衡に陥る経済では、それは問題にはならないのでは、と書いている。それに対しRoweはコメント欄で、自分の考える経済は生産ギャップがあることを個人が知っている経済だが、レン−ルイスの考える経済は個人が誤って生産ギャップが無いと考えている経済だ、と指摘している。