27日エントリでは、経済学は体系化された常識(Economics is organized common sense)」というサージェントの言葉へのDavid Glasnerの否定的な反応を紹介したが、Stephen Williamsonも、表題のブログエントリ(原題は「Tom Sargent: What's Between the Lines」)でその言葉に疑問を投げ掛けている:
I had to think about whether I agree with the "organized common sense" view of economics. If common sense is supposed to be what the average layperson possesses, then economics is not common sense, as it's sometimes (if not often) counterintuitive. For example, Adam Smith told us that greed can be a good thing. That's certainly not part of collective wisdom, I think. But Sargent was trying to put the Berkeley graduates at ease. He's telling them that doing economics is just a matter of putting pieces of straightforward logic together to come up with a coherent set of ideas.
(拙訳)
「体系化された常識」という経済学への見方に同意するかどうかについては一考の余地がある。もし常識という言葉で平均的な素人の持つ常識のことを指しているならば、経済学は常識ではない。というのは、経済学は時には(頻繁に、ではないにせよ)直観に反するからである。例えば、アダム・スミスは貪欲が善となり得ると述べている。私が思うに、そうした考えは決して集合知の一部ではない。とは言え、サージェントは、バークレーの卒業生の警戒をほぐそうとした。彼は卒業生たちに、経済学というのは、直線的な論理を幾つか組み合わせて首尾一貫したひとかたまりの考えを組み上げることに過ぎない、と伝えようとしたのだ。
ただし、Williamsonはサージェントの12の教訓自体は肯定的に受け止めており、その点においては、否定的な反応を示したGlasnerと対照的である。彼もまた、Glasnerと同様に教訓それぞれにコメントしているので、以下ではhicksianさんの訳されたサージェントの12の教訓に、副項の形でWilliamsonのコメントの概要*1を付記してみた。
- 仮に実現されたとしたら望ましいのだが(残念ながら)実現可能ではないという例は数多い。
- これは経済学入門で真っ先に習うこと。社会も個人も制約に直面しており、社会の制約を論じるのが経済学である。例えば、2014年の米国経済は2007年と同程度の制約しかない、と考える人もいる。そうした人々は、FRBや議会の意思決定者が制約下で最適化を行っていない、と考え、実際に実現可能でより望ましい結果が存在する、と考えている。それに同意しない人もいる。
- 個人も社会もともにトレードオフに直面している。
- この機会コストの件も経済学入門の重要な一部。我々が直面する制約がどういうものかという話。個人は予算制約に直面している。社会においても、将来の生産能力の拡大のためには現在の消費を断念しなくてはならない、と経済成長理論は言う。ただ、社会のトレードオフについては経済学者の間で議論がある。1960年代にソローとサミュエルソンはフィリップス曲線のトレードオフがあると論じた。フリードマンは、それは短期のトレードオフに過ぎず、長期ではそうしたトレードオフは存在しない、と述べ、フィリップス曲線は廃れた。1990年代にニューケインジアンによってフィリップス曲線は甦ったが、多くのマクロ経済学者は依然として懐疑的である。
- 誰もが自らの能力や努力、好みについて他人よりも多くの情報を持ち合わせている。
- これは経済学入門にない話だが、銀行の存在意義や金融危機や失業など、多くの現代の経済的問題の根幹に位置する。これらの問題を扱う際は、私的情報がどのように市場や経済制度の機能に影響するかを注意深く考える必要がある。過去50年間に経済学はそうしたことに役立つツールを開発してきた。
- 誰もがインセンティブに反応する。あなたが助けの手を差し伸べたいと考えている人たちもその例外ではない。セーフティネットが必ずしも意図した通りの結果をもたらさないのはそのためだ。
- これは第3項と密接に関連。失業保険とモラルハザードの関係が一例。
- 平等(公平)と効率の間にはトレードオフが存在する。
- ゲームの均衡においては(あるいは経済が均衡に落ち着いている状況においては)人々は皆自らの選択に満足している。善意ある第三者がやって来て状況を変えようと試みても(いい方向/悪い方向のどちらであれ)なかなか事態に変化が表れないのはそのためだ。
- 誰もがインセンティブに反応するのは今(現時点)だけに限られるわけではない。将来においてもまたそうである。約束したいという思いはあってもそうはいかない(約束できない)というケースがあるのはそのためだ。例えば、時間が経って約束を果たさないといけなくなった時にその通りに行動する(約束を守る)ことがその人の得にはならないとしよう。そのことが広く知れ渡っている場合、一体誰がその人の約束を信じるだろうか? このことから次のような教訓が導かれる。約束をする前に一旦立ち止まって次のように自問してみよう。(約束する時に想定していたのとは)状況が変わっても自分はその約束を守り抜く気はあるだろうか?、と。このことを実践していれば名声(reputation)を手にすることができるはずだ。
- 政府や投票者もインセンティブに反応する。時に政府がデフォルトを宣言したり約束を反故にすることがあるのはそのためだ。
- 次の世代(将来世代)に費用の負担を押し付けることは可能だ。国債(の発行を通じた財政赤字の埋め合わせ)やアメリカの社会保障制度(シンガポールの社会保障制度は別)などはそのための典型的な方法だと言える。
- 政府による支出はいずれは国民がその費用を負担することになる。費用を負担するのは今日かもしれないし明日かもしれない。税金の支払いといったはっきりと目につくかたちでの負担となるかもしれないし、インフレーションを通じた目につきにくいかたちでの負担となるかもしれない。どういうかたちであれ、政府が行う支出はいずれは国民がその費用を負担することになるのだ。
- 大半の人は公共財の供給や移転支出(特に自分が受け取る移転支出)に要する費用を他人に負担させたがるものだ。
- 現在の医療保険を巡る議論が好例。一部の高齢者は自らの受け取る医療給付を当然視する一方で、保険対象者の拡大に反対する。国防のように公的な提供が相応しい財やサービスは存在するが、自発的な寄付に資金調達を頼っていたら適切な量を提供することはできない。公共財をきちんと機能させるためには、税の徴収という政府による強制的な徴発に皆が合意する必要がある。
- 市場で成り立っている価格は多くの取引参加者の持つ情報を集約している。だからこそ、株価や金利、為替レートの今後の行方を予測することは困難なのだ。
- これは単純な金融の裁定の話。ファーマはこれを「効率的市場仮説」と呼んだが、誤った呼び名だ。というのは、通常の経済学的な意味において非常に非効率な経済においても、金融市場での完全な裁定は起こり得るからだ。
なお、27日エントリでリンクしたクルーグマンは、サージェントの12の教訓――ないし今それが再浮上してきたという事象――に批判的だが、Williamsonはそれに大いに反発しており、このエントリと別のエントリで、クルーグマンの反応を「パラノイア」という言葉まで使って強く非難している。