GDPは規範経済学に適してないが実証経済学に適している

とEconospeakのピーター・ドーマンが、ここで紹介したDiane Coyleの本のNYT書評をとば口として主張している


だが経済学者は、モデルを両経済学で使い分けるのを好まないのと同様、GDPも両経済学で使い分けようとしない、とドーマンは言う。

Economists don’t want one model to predict what the equilibrium outcome will be and another, using completely different elements and based on different assumptions, to rank that outcome against others according to how beneficial it is. Most models in economics do double-duty: they support positive and normative analysis equally.
So it is with GDP.
(拙訳)
経済学者は、あるモデルを使って均衡の結果を予測する一方で、全く違う要素を用い異なる前提に立つ別のモデルを使ってその結果を有益性に基づいて序列付けする、ということはしたがらない。経済学のモデルの大部分は両方の役目を兼務しており、実証分析と規範分析を等しくこなす。
GDPについても同様である。


GDPは、良くあげつらわれる経済厚生の尺度としての欠点――厚生を低下させるものを数多く含む一方で厚生を向上させるものを数多く除外し、環境破壊など経済活動の有害な結果を無視し、生産コストで評価する政府サービスなどについて真の価値を反映せず、消費者の所得からの支出が必ずしも厚生最大化に結びつかず通勤支出のように逆に厚生を悪化させることさえある――により、規範経済学の目的に使う指標としては深刻な欠陥を抱えている、とドーマンは指摘する。その半面、市場経済規模を測っているという点では、実証分析には有用である、と彼は強調する。真の価値を測っていないという規範分析の観点からの批判に対応しようとすると、むしろ市場価値を測っているという側面を失ってしまう、と彼は言う。


ドーマンに言わせれば、実証と規範の区別は重要かつ維持すべきものであり、片方の側面についてうまくいく概念やモデルがもう片方についてもうまくいくと思い込むべきではない、とのことである。モデルについて言えば、説明や予測と言った実証面でうまく機能しているモデルで厚生分析も行わせようとするため、厚生経済学は大いなる損害を蒙っている、というのが彼の見解である。GDPについてはその二の舞は避けるべき、とドーマンは主張する。彼はエントリを以下の言葉で締め括っている。

Keep and even improve GDP as a measure of the size of monetary flows within an economy, and look elsewhere for appropriate indicators of human well-being. (I have a hunch that economists, who are good at the first task, will prove to be less well-suited to the second.) Do positive well, and do normative well, and don’t let either get in the way of the other.
(拙訳)
経済における金銭の流れの大きさを測る尺度としてのGDPは維持し、改善さえすべきである。そして、人々の厚生に関する適切な指標についてはどこか他所を当たるべきである(私の勘によれば、経済学者は前者の仕事には優れているが、後者の仕事についてはそれほどではない)。実証経済学をきちんとやり、規範経済学もきちんとやる。そして、片方がもう片方の障害になるような真似は避けるべきである。


コメント欄では、サンドイッチマンとドーマンが、クズネッツもこの点について混同していた、という話や、GDPの実質化という操作は実証と規範の区分を踏み越えているか否か、という点についてやり取りを行っている。さらに、エントリのきっかけになった本の著者であるDiane Coyle自身が降臨し、取り上げてくれたことに謝意を表するとともに、自著でも活動と厚生、実証と規範の区別は重視している、とコメントしている。