経済学実証主義は傲慢=謙虚軸のどこに位置すると考えるべきか?

12日エントリで紹介したRuss Robertsのエッセイを巡る論争について、表題のEconospeakエントリ(原題は「Where Should We Put Economic Empiricism on the Hubris-Humility Spectrum?」)でピーター・ドーマンが以下のようにまとめている(ただしこのまとめは、小生が12日エントリを書いた後に勃発したコーエン=ノアピニオン氏論争が中心になっている)。

A bit of a kerfuffle has broken out over the claim that, as economics gets more empirical, it also gets more reliable. Russ Roberts says that, in the name of empiricism, economists are trotting out contested results to adjudicate questions that are vastly more complicated than their methods can allow for, and that they should acquire a bit more humility instead. Balderdash, says Noah Smith: whatever lack of humility is evinced by researchers who jump the gun in empirical work is swept away by the tsunami of hubris issuing from those who have only vague, unsubstantiated assumptions about how the world “really” works. Cowen rebuts, arguing that motivated, hubristic reasoning can seize on empiricism just as readily as any other academic raw material. Smith retorts, going halfway to meet Cowen, but expressing optimism that empirical methods carry their own antibody against motivated bs and will pull knowledge in a more realistic direction over time.
(拙訳)
経済学が実証主義的になるにつれ、信頼性も高まる、という主張を巡って、ちょっとした論争が巻き起こった。ラス・ロバーツは、実証主義の名の下に経済学者たちは、自分たちの手法がとても手に負えないほど複雑な問題を裁定して、お互いに競合する結果を披露しているが、彼らは少しばかりの謙虚さをもっと身に付けるべき、と言う。それは戯言だ、とノア・スミスは言う。実証研究で先走る研究者が如何に謙虚さを欠く言動を見せたにせよ、世界が「実際に」どのように動いているかについて曖昧で裏付けの無い前提しか持たない人々から放たれる夥しい傲慢さの前には霞んでしまう、と彼は言う。これにコーエンが反論し、動機付けられた傲慢な推論は、学界の他のあらゆる素材におけるのと同程度の容易さで、実証主義にも憑りつくことができる、と論じた。スミスは反駁し、コーエンの言い分を半分認めつつも、実証的手法は、動機付けられた戯言に対する独自の抗体を持っており、やがて知識をより現実的な方向に向けるだろう、という楽観的な見方を示した。

その上でドーマンは以下の点を指摘した。

  • ロバーツの見解はハイエクの「致命的な自惚れ(Fatal Conceit*1)」の再説のように思われる。
    • ハイエクのいわゆる致命的な自惚れに陥るべきではない、という主張には同意するが、ハイエクの不可知論は実証の程度を尊重しない点で対象範囲が広すぎ、市場過程について通り一遍の前提を立てている点で対象範囲が狭すぎる、というのが一般的な見方になっている。
  • 真に実証主義的な経済学は、傲慢さとイデオロギー的な我田引水に対する固有の障壁を有している、と思う。
    • 例えばここで提案したように、XとYの関係について説得力を持つすべての説明を洗い出し、実証結果から各説明の特長を識別するようにすれば、研究者のお好みの理論に対する自信過剰な「実証的」主張を防ぐことになろう。
    • 同様に、代理指標の測定の問題にもっと真剣な注意が向けられれば、間接的な証拠に過ぎないことに通り一遍の解釈を通じて過剰な意味を見い出そうとする動きを抑止するだろう。
    • また、ここで懸念を示したように、推計しようとする関係に予め一様性を仮定する手法には疑義がある。
  • ということで、ドーマン自身がそうあって欲しいというと思うよりも、ロバーツとコーエンは正しく、スミスは間違っている、というのがドーマンの見解。
    • その主な理由は、現時点で経済学の実証主義として通用しているものは、実証主義者の自己批判的な精神ならびに方法論をしばしば欠いているため。
    • ただ、最低賃金やチャータースクールの教育上の効果といったトピックにおけるデータや分析上の仮定についての議論は、自分と論争相手がどれだけ自らの信念を疑問の余地無く確信しているかを巡る争いよりも遥かに高度なものとなっている。
    • また、計量経済学上の議論を、ロバーツのように「問題を最終的に解決するきれいな実証検定は不可能である」と一蹴するのは安っぽいやり方であり、前向きとは言えない問題回避の姿勢である。それは、「Merchants of Doubt*2」的な認識論である。


コメント欄でノアピニオン氏が、良く分からないけどこのエントリは自分に賛成しているのか、と書いたのに対し、ドーマンは以下のように応じている。

Sorta, Noah, but I think there are dark spots in econometrics as now widely practiced that are as faith-based as much of the theory we are now so willing to be skeptical of. To the extent that's true, it means that "actually existing empiricism" is less corrective of hubris and motivated reasoning than it ought to be. We need serious, self-doubting Feynmanistic empiricism. (Not that there isn't any in econ, of course, but not nearly enough.)
Or maybe I'm just trying to be obscure! That way people will think I'm smarter.
(拙訳)
まあそうだ、ノア。しかし現在広く実施されている計量経済学研究には、我々が今これほど懐疑論を提起している理論の多くと同じくらい信念に基づいたものとなっているものがある、という欠点があるように思う。その見方が正しければ、「実際に今存在している実証主義」が傲慢さと動機付けられた推論を正す力は、その分だけ本来よりも削がれている、ということになる。我々は真剣な、自らを疑うようなファインマン的な実証主義を必要としているのだ(もちろん、経済学にそれがまったく無いわけではないが、十分には無い)。
あるいは僕は単に韜晦しようとしているのかもね! そうすれば人々は僕が一層賢いと思ってくれるかもしれないから。


その計量経済学研究の欠点についてもっと具体的に説明してくれ、という別のコメンターに応じてドーマンは、以下の4点を挙げている。

  1. 構造的計量経済学の大半はよろしくない。それは検証そのものというよりはカリブレーションの話になっており、私が研究した分野でのモデルは説得力を欠いていた。それは効用最大化が成立しない行動の分野について効用最大化を大量に行っていた*3
  2. 「〜と整合的である」という問題回避的な姿勢について過去に批判したことがあった*4。これは帰無仮説の有意性検定の罪の最たるものである。帰無仮説を棄却することは、帰無仮説が誤りであることを含意する理論が他に3つあれば、自分の理論を「支持」することにはならない。計量経済学者が「自分の」お気に入りの理論を競合する他の理論との検定に掛けるために、可能な限りあらゆることをするのが一般的だと思うかい?
  3. アンドリュー・ゲルマンの「八岐の園*5」は、最も一般的な計量経済学におけるその辺りの話を尽くしている。この一般化は不公平だと思うかい?
  4. 不均一的な効果は、私の経験では、本来意図したほどの全体的な効果を研究者が示せなかった場合に滑り止め的に研究する対象になっており、一般化の可能性を検定するためのものとはなっていない。一般的な効果が.05をすり抜けた場合、研究者がこの効果の出現の有無のパターンに何か意味があるかどうかを検定するために分解や分類をするのをどの程度頻繁に目にするかい?

*1:cf. The Fatal Conceit - Wikipedia

*2:邦訳:

世界を騙しつづける科学者たち〈上〉

世界を騙しつづける科学者たち〈上〉

世界を騙しつづける科学者たち〈下〉

世界を騙しつづける科学者たち〈下〉

*3:ちなみにここなどで紹介したように、ドーマンはかねてから効用関数に批判的である。

*4:cf.(エントリ本文でもリンクしている)ここ

*5:cf. これ、およびタイトルの元となったボルヘスの短編のWikipediaエントリにおける説明